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ブラックホール相補性とホログラフィック原理

「現代物理の自然観」に書いた文章を転載します。


ブラックホールに落ち込んだ物質が持っていた情報は、宇宙から失われるのか、失われないのかについて、物理学の世界で論争がありました。

レオナルド・サスキンドは、この論争を「ブラックホール戦争」と呼んでいます。

スティーブン・ホーキングらは情報が失われると考え、サスキンドらは失われないと考えました。

前者の支持者は一般相対性理論の研究者が多く、後者の支持者は量子論(超ひも理論)の研究者が多いという傾向があります。

サスキンドは、ホーキングが意見を変えたことからも分かるように、この論争が後者の勝利に終わったと考えています。

この論争には、「ブラックホール相補性」、「ホログラフィック原理」といった、革命的な説が関わってきます。

以下、この論争について、サスキンドの「ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い」(日経BP、原書は2008年)を主な参考書として紹介します。


ブラックホール戦争


改めて説明すると、「ブラックホール戦争」は、1976年に、スティーヴン・ホーキングが、ブラックホールに投げ込んだ情報は外の世界から永久に失われると主張したことに始まります。

ホーキングは、情報はブラックホールの外に戻ることなく、ブラックホールは蒸発してなくなると考えました。

サスキンドとゲラルド・トフーフトらは、これがありえないと考え、20年に渡る論争になりました。

この論争は、「一般相対性理論の原理と量子力学の原理の闘い」であり、「量子力学を守った戦争」であったともサスキンドは書いています。

量子論では、情報の保存則があり、私たちが系に干渉しない限り、古典力学の場合と同じく、系が伝える情報を失うことはありません。

ですから、ホーキングの主張は、量子力学を否定するものなのです。

サスキンドとトフーフトは、「ホーキング放射」される粒子の中に情報が保存されていると考えました。

ですが、この説は、ホーキングが否定していたもので、当初、物理学者の間でも人気がありませんでした。


ブラックホールとエントロピー


ジェイコブ・ベッケンスタインは、ブラックホールに熱い気体の入った容器のようなエントロピーを投げ込むと、外の世界のエントロピーは減少するので、ブラックホールのエントロピーは増大するハズだと考えました。

そして、ブラックホールはエントロピーを持ち、大きくなるほどエントロピーは増大すると主張しました。

ブラックホールのエントロピーは地平線の表面積に比例します。

1ビットの情報をブラックホールに加えると、地平線の面積が1プランク面積だけ大きくなります。

この考え方では、地平面は、物質としてのビットに覆われた境界面となります。

ですが、アインシュタインの相対性理論の予想では、地平線は単なる帰還不能点で、それを越える者は何も感じない、物理的な実体のない数学的な面です。

この2つの説は対立する考え方であり、ブラックホール戦争を本格的に勃発させました。


ホーキング放射


ホーキングの教官だったデニス・シアマは、ブラックホールは黒体ではあるが、絶対零度ではなく、電磁放射を出すと主張しました。

そして、地平線の半径は質量に正比例し、エネルギーを放射するにつれて小さくなり、最後には消滅すると。

ホーキングは、最初、ブラックホールがエントロピーや温度を持ち、やがて消滅することを否定していました。

温度とは、エントロピーを加えると増加する物理量です。

ですが、ホーキングは、場の量子場の数学を使って、ブラックホールによる量子ゆらぎの乱れのために、光子が放出されることを計算で示しました。

つまり、ブラックホールの地平線は、まるで熱い黒体のように、温度を持っているかのようになります。

このブラックホールからの光子の放出は「ホーキング放射」と呼ばれます。

ブラックホールのエントロピーは、プランク単位で測定した地平線の表面積の1/4になります。

ブラックホールは質量が小さくなるほど熱くなり、プランク質量に達するまでに温度は10の32乗度に達します。


地平面に関する矛盾


量子力学によれば、物体がブラックホールに落ちていくと、地平線のすぐ近くの異常に熱い領域と出会います。

そして、ここでものすごい高温があらゆる物体はばらばらの光子に変わり、やがて、ブラックホールから光子が放たれます。

ブラックホールに落ち行く物体が運ぶ情報のビットは、すべてこれら光子に組み込まれて戻ってきます。

ですが、相対性理論の等価原理によれば、情報は何ものにも邪魔されることなく、地平線を越えていきます。

この量子力学と相対性理論によるブラックホールの地平面と情報に関する矛盾は、解決できないように思えました。


ブラックホール相補性


サスキンドは、この矛盾に対して、1993年のサンタバーバラの会議で、「ブラックホール相補性」という解釈を提唱しました。

これは、以下のような解釈です。

ブラックホールの外に留まっている観察者から見ると、地平線のすぐ外側にプランク長さほどの厚さの厚い層があり、ここがあらゆる情報のビットを吸収し、ホーキング放射として放射する。

一方、自由落下する観察者から見ると、地平線は空っぽの空間で、落下する観察者は地平線で何も感知しない。

これは矛盾するように見えますが、二人の観察者は出会って記録を比較することがでないので、実際に矛盾が起きることはありません。

物理学では、矛盾を矛盾と呼べるのは一貫しない実験結果が出た場合だけです。

つまり、2つの見方は、それぞれの観察者にとって共に真実であって、これらを「相補的」であると見なすことができるのです。

ですが、この相補性は、量子力学の波と粒子の相補性とは大きく異なります。

そのため、「ブラックホール相補性」という解釈に納得する物理学者は少数に留まりました。

この「ブラックホール相補性」は、相対性理論の時間や長さの伸び縮みや、量子論の観測によって実在が変わることは、かなり意味が違います。

これは、異なる観察者から見て、まったく異なる事象(単なるスケールの違いではない)が、どちらも物理的に真実であるとするものであり、その哲学的衝撃は、極めて大きいでしょう。


宇宙の相補性


サスキンドは、宇宙の地平線の性質が、ブラックホールの地平線の性質にとても似ていると考えます。

宇宙の地平線も放射を出しています。

ですから、「宇宙の相補性」もあるかもしれないと主張します。

つまり、宇宙の地平線の内部にいる観察者には、地平線は地平線原子でできた熱い層であって、それがすべての情報のビットを吸収して、かき混ぜて、送り返します。

ですが、自由に運動して宇宙の地平線を通過する観察者には、地平線を通過するときに何も起こらないのです。


超ひも理論とブラックホール


超ひも理論によれば、ブラックホールは、途方もなく大きい、もつれた、「怪物ひも」であると考えることができます。

ひもの質量、エントロピーはその長さに比例します。

ブラックホールは、重力によって地平線に広がった、開いた、ひもです。

ひもの一部は地平線から離れることができるので、ブラックホールは蒸発していきます。

ブラックホールから外に突き出しているひもが、ねじれて自分自身と交差した時、10%の確率で小さなひもの輪になって離れていくと考えることができます。

これが、ホーキング放射に当たります。

ブラックホールの外の観察者から見れば、ブラックホールに落ちていくひもは、その運動がゆっくりになって振動する構造が見えるようになり、そして、大きくなってブラックホール全体に広がります。

アショーク・センは、ブラックホールが、コンパクト化された空間に膨大な回数巻き付いたひもであると考えました。

そして、ブラックホールのエントロピーが、地平線の面積に比例することを、超ひも理論で導きました。

また、ジュアン・マルダセナとカート・カランは、ひもとDブレーンを組み合わせてブラックホールが作れることを示しました。

そして、彼らは、量子力学だけの方法で蒸発速度を計算して、ホーキングと同じ結果を得ました。

彼らによると、ブラックホールで反対方向に動く起伏がぶつかる時、ひもが輪になって飛び出して、ブラックホールは蒸発していきます。

彼らは、ブラックホールのエントロピーを、ひもの突起に保存された情報で説明します。

この説では、情報が蒸発の過程で失われる可能性はありませんでした。


ホログラフィック原理


1994年(?)、まず、トフーフトが、次に、マルダセナが「ホログラフィック原理」を提唱しました。

これは、「ブラックホール戦争」に大きな影響を与えることになります。

サスキンドは、「ホログラフィック原理」について、次のように表現しています。

3次元の宇宙は、遠く離れた2次元の面にコード化された量子力学的ホログラムから生じる映像である。

あるいは、空間の領域の内部で起こりうる一切のことは、その領域の境界面の情報だけで表せる。

その後の1996年(?)、マルダセナは、Dブレーン・スタックス(くっついたDブレーンの集まり)にくっついたひもを表す規則は、量子色力学(QCD)のグルーオンを表す規則とまったく同じ(双対)であることを示しました。

これは、QCDを含む重力のない3次元時空の世界(2次元の量子ホログラム)が、重力のある4次元時空の反ド・ジッター宇宙と双対であるということです。

これは、現在、「AdS/CFT対応」、あるいは、「ゲージ/重力双対」、「マルダセナ双対」と呼ばれます。

それを受けて、エドワード・ウィッテンは、ブラックホールが2次元の境界面の場の量子論における、単なるグルーオンと同等であることを示しました。

2人は、情報がブラックホールの地平面の向こうで失われることはないことを証明したことになります。

サスキンドは、これによって、「ブラックホール戦争」に決着がついたと考えます。

ちなみに、この「ホログラフィック原理」も、時空や重力に関しての従来の概念を完全に変える必要性を示唆しているので、その哲学的な衝撃は、極めて大きなものがあります。


ホーキングとペンローズ


2002年、ホーキングの60歳の誕生パーティで、ロジャー・ペンローズは、自分もホーキングも情報が失われることを信じている、そして、マルダセナのホログラフィック原理は誤解に基づいている、とスピーチしました。

彼らは、この時点で、まだ、「ブラックホール戦争」を継続していました。

ですが、2004年の記者会見で、ホーキングは考えを変えて、事実上、敗戦を認めました。



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