じごく湯(1,2,3)



 林に木の葉が舞う。その中で僧が構えている。僧の両手が、短杖を振り下ろす。ぴしり。葉が打たれる。杖は最後まで振り抜かれることなく、止まる。一連の動きを、僧は繰り返す。その足運びは重く、間合いは狭い。

「まーた、ほっつき歩いとる」
 娘が林に入ってきて、僧に声をかけた。
「目付けをするおらの身にも、なってけれ。じっとしてねば、傷だって塞がりようがね」
 娘が言った。娘は岩に腰を上げ、手元の竹材をいじる。


 僧が答えを返す。
「俺は人より丈夫じゃ。膿まず、爛れず、病にもかからぬ。さりとて」
 僧の杖が打つ。葉は踊り、杖先から逃れた。
「じっとしておると、未練に襲われる」

 話を聞いた娘は、あちこちの物陰をうかがい見る。
「みれん。油断も隙もねぇ奴だべ」


 僧が基本位置に戻って、言う。
「未練とは、忘れがたきことを言う。……痛むのだ」
「何だ。そんならそうと素直に言うだ」
 娘は腕まくりをして、体を乗り出す。
「痛ぇのはどこだ?いっちょ、按摩あんまをしてやるべ」
 娘は言って、手をわきわきとさせた。

 僧は素振りをやめた。左手をほどくと、杖も右手も、だらんと垂れ下がる。
「されたいのは山々。だが、痛むのはこいつよ」
 僧は言って、すねを叩く。乾いた音がした。僧のそちらの足は、木製の義足となっている。

「それ、痛んだりすんのけ」娘が不思議がる。
「痛むはずがない。出所もなく、痛みのみ。すなわち、俺の未練なのだ」
 答える僧は、また杖を振り始めている。葉が逃げる。二度。三度。振りが大いに乱れる。僧は汗をかいている。


 娘は竹細工の続きをして、言う。
「足が幽霊さなっただか?」「霊など」僧は素振りに心を取られ、言葉少なになる。

「だども……。痛みがねかったら、何されてもわかんね。シナズにやられちまってから、慌てんのけ?遅ぇべよ」
 言い終えた娘が、木くずを落として立つ。娘は僧に向かって、合掌のようなしぐさをした。手の間から竹とんぼが飛び上がる。

 僧を目がけて来た気配に、僧はとっさの突きをした。だが、そちらの肩から下には、生きた関節がない。片手による突きはぶれ、あらぬ方へ流れた。
 竹とんぼは杖の間合いを抜け、僧の肩に止まる。

「…………むっ」
 僧が正気づいて、竹とんぼをつまみ取る。


 娘が足をぱたぱたとさせて、笑った。
「未練だな」



 木々が終わり、岩肌が始まる。その山には草木が生えていない。全体が熱を帯び、所どころで煙を噴き上げている。
 異様に巨大な一本の木だけが、山頂でそびえ立っていた。荒れ山の外では木々が葉をつけているのに、この巨木は普通ではない。枝は生きたさんごの如く、うぞうぞと動く。枝先には葉でなく、湾曲した棒きれが生えているのだった。
 山の中腹では、人々が人垣をなしている。不審な呪文や楽、礼拝が、巨木へと捧げられた。


 さて、山裾の森には、巨木をにらむ数十人がいた。こちらの集団は、荒れ山に立ち入らない。誰もが斧や鋸を手にしている。山子きこりなのだ。
 木こり集団のうち、一人の若者が言う。
「起きます。よそ見の無ぇよう、頼みます」
 木こりに一人混じった僧が、応えてうなずく。

 若者は空を指差す。そこではがんが、くの字型の編隊となって、荒れ山の周囲を旋回していた。下の森からは、がんを狙う矢が上がる。がんたちは周到に向きを変え、矢を受けない。しかし、何度もかわすうちに、荒れ山へ追い込まれていく。とうとう一羽が、荒れ山の上空に入った。


 初めに甲高い音。大きく、耳の痛む騒音に。と、一筋の線が空を横切り、がんの群れを貫いた。群れの先頭の一羽が、はじけ飛んで消えた。がんたちは風であおり立てられる。統制を失って、ある者は落下し、ある者は矢にかかった。
 初めに、音を連れてきた線。長すぎるそれも、矢のような形をしていた。

 僧が問う。
鏑矢かぶらやか。合戦なりと告げる」「そうです」
 隣にいる若者が答えた。


 僧と集団は、巨木に目を戻す。巨木の枝の二本が、射撃を終えた両腕の格好に変わっていた。また、枝先に付く棒きれは、きらめいて見える。もっと目を凝らすと、間にうっすらと糸が張られている。巨木には、弓と矢が。
 天を突く巨木のごとき存在は、巨大な一体の不死なのだった。


 巨木がまた大矢を取る。この矢は、地上の煙に突っ込まれ、かき混ぜられた。
 巨木が取り直した矢からは、青紫の火が立ちのぼった。今や火矢と言うべきものが、放たれる。びょう。隣の、緑豊かな山へと、火矢は吸い込まれていった。さらに数発。隣山がぱちぱちと燃え始める。

 どどどどど。青い山火事の中から、地響きが起こる。
 転がり出てくる、うさぎに狐に猿。他にも毛色の違う獣が、たくさん焼け出されて出た。混成の群れは、荒れ山になだれ込む。

 荒れ山の側から、容赦のない矢が降り注ぐ。何十何百という巨木の枝が、互い違いに矢を装填しては発射した。巨木の信奉者たちも、ならって射つ。


 ざあざあざあざあざあざあ。矢の雨は、逃げ場なく降った。獣の群れの先頭が、次々と走り死にを遂げ、脱落していく。あるいは、山中に並ぶ木杭にぶち当たり、右往左往とした。元の山はもう火だるまで、戻れる場所ではない。
 わうーっと、勇ましい遠吠え。崩れゆく森を割って、最大級の獣が現れた。年経た山犬おおかみ、それも不自然な細身の、不死である。一帯のヌシと思われた。不死は、四対もある足で、群狼のごとく走り出した。その体は前後に伸び、恰好の的になる。だが走り続ける。


 狼の不死が、柵の妨害に穴をあけ、射場に乱入した。巨木の信奉者を、切り裂き、噛み千切り、くびり殺す。
 ……そのさなか、狼の動きがぎこちない。狼の足の何本かが、こわばり、宙に浮いているのが見えた。信奉者たちはこれに気付き、囲いを狭める。狼が毛を逆立てて怒り、人の波を押し返す。体は弱ったが、狼の意気はくじけていない。

 見ている僧が問う。
壺眩つぼくらりか。食うてよい矢毒とな」「そうです」
 隣で若者が答えた。


 狼は、残る足で体を引きずった。山頂、巨木の根元まで来ていた。狼が、くわと牙をむく。
 どかかか。天から降った十数本の大矢が、狼の眉間の一点に突き立てられる。前の矢筈を押し込むように、また一本。さらに一本。さらに。さらに。狼の不死の細身が、どさりと倒れ、山肌を滑った。

「しょおぶゥ ウ ウ」巨木が勝ちどきを上げた。信奉者たちの歓声が続く。


 やがて、圧倒的な狩りは終わった。千頭にものぼろうかという獣の死体が、野山を埋めた。
 隣山では、木々のかすが燃えくすぶっている。森は死に、荒れ山と同じ風景が、その場を塗り替えつつあった。

 木こりの若者が、怒りと恐れの混ざったような声を出した。
「見なすったべ。あの大入道の、弓弼ゆみすけを。それに、奴めをまつり上げとる、千手せんじゅ教のしわざを……!」



 僧も、周囲のことに立ち返って、話す。
「見た。不死としても、滅多な殺しぶりじゃ。しかし……」
 僧は、木こりの集団を見回した。樹皮製の衣をまとった者たち。僧は話を続ける。
「……わからぬのは、お前さんらよ。危ういと知りつつも、ここにおったな」

 木こりの若者が、重苦しくこれに答える。
「かたきが討ちてぇだす」「任されたし」
 僧は木陰から踏み出そうとする。

 若者たちが回り込んできて、僧を止めた。
「待ってけれ。弓弼は、見ず、動かず。あの腕の多さで、山のどこへでも、矢を届かせるのです。坊ん様は百人力で戦うども、一人ですべ?どうしたって、近寄れねです」
「そうやも知れぬがな」


 僧が不承不承で認める。すると、若者が地べたに座り込んだ。僧は一同を見比べたが、ゆずる者は居ない。僧も観念したように、若者の向かいに座った。若者が地に紙を広げつつ、話す。
「……『近寄れね』とは、他でもね、おらたちのことだ。おらたちはまず、一揆を結んで来ました。だども、いくじのね話、ここで立ちぼうけをしとったのです」
 広げられた紙には、人名が並ぶ。若者が読むと、木こりの誰かが答えた。紙は連判状であった。神仏に誓うことで、身内の結束を強めるものである。

 若者が両の拳を、どんと地に突く。そして頭を深く下げた。
「頼みが御んす。坊ん様のお力で、憎い弓弼の所までお連れ下さい。誰だか、一人ばかりでええ。あとの命は、好きに潰して下さるがええ。まず、お頼みします」
 他の一揆衆たちが、僧に注目した。見極めるように。


 僧も、彼ら一人一人をよく見返す。それから、筆に墨を吸わせた。
「承知した。力を出し合おう」
 僧は連判状に己を書き入れる。文字に重ねられる、血の親指。僧の血は、尋常の色をしていない。
 僧が、されたおじぎを返す。若者が、期待を浮かべてうなずく。

 僧は言葉を付け加える。
「……とて、命は預からぬぞ。俺は用兵家でもなし。俺もお前さんらも、かくの如くじゃ」
 僧の指が、くるりと書面をなぞる。連判状の名前は円状に並べられ、あえて順序付けがされない。
 この僧の名も、今は円の一つだ。『くらげ』とあった。



 弓矢を背負った人々が、竹林を歩く。誰もが、まがまがしい紋入りのお札を身に着ける。弓矢と紋、その二つは、千手教の目印だった。

 千手教徒たちは斧を持ち出し、竹を刈ろうとする。
「もし」、とそこへ声がかかった。
「誰だ!」教徒がさっと振り向く。斧は一瞬に投げ出され、弓矢へと変わっている。他の教徒も同じ。

 教徒の前に現れたのは、木こりの集団だった。
「お初に。千手教のご先達でしたけ」「そいだば?」
「おらたち、心を入れ替えますだ。弓弼せんじゅ様のこと、信じさせて下さい。これは、ほんの手土産です」
 木こり集団の奥から、矢の束が差し出された。

 教徒たちは、矢の出来を慎重に確かめる。だが、ついにはこのみつぎ物を受け取ることにし、教徒たちは弓を収めた。
 教徒が、木こりたちを呼びつける。
「入信だば、転びをせねばなんね。着いて


 木こりの入信者たちは、荒れ山の境目に連れて来られた。そこでは石の地蔵が横倒しになり、泥水に浸かっている。
 教徒が言う。
「まず裸足になって、よく泥をつけれ。したらば、こうして」
 教徒の足が、地蔵を踏み付ける。その様を、しつこく皆に見せた。
「……こうだ。これからお前たちは、こったら偽物を大事にしては、なんね。弓弼せんじゅ様ばかり信じるだ。『おらは弓弼せんじゅ様に転んだかいしんした』と、固く誓え」

「わかった者!?」と教徒。
「「「はい!」」」と答える入信者たち。

 入信者は並ばされ、改心の儀式が始まった。


 この入信者たちの正体は、僧を含む一揆衆だ。
 僧たちは弓弼に近付くために、作戦を練った。第一に、大量に矢を消費する弓弼が、山頂で動こうとしない。それは、矢の調達や再収集のために、下山してくる教徒がいることを意味する。次に千手教が、なぜか不死と人の混成であること。それなら、一揆衆たち生きた人間でも、付け入ることができそうだ。
 つまり、矢の材料がある森で待ち、入信式をやり過ごして、いっとき教徒のふりをするのがよい。これで千手教の教徒たちが、弓弼のもとへ案内してくれる。作戦はうまく行って見えた。


「こいつ!踏み跡がねかった!」
 検分役から指摘が上がった。その目の前に、地蔵から足を下ろした入信者がいた。地蔵の表面に、濡れた足跡はない。
「何?」「掟破りけ!?」教徒たちが騒然とし、矢を向ける。

「待った、待った」その入信者――実のところ変装した僧は、言い訳をする。
「悪気はござらぬ。俺の足は木造りよ。踏めたか、踏まずか、難しうてのう」
 僧が義足を見せる。教徒たちは矢で狙ったまま、意見を交わす。
「なぬ……?」「……嘘っぺ。またやらせんべか」「うんにゃ。いちいちいちいち、キリがね」
 言った教徒が、持論を続ける。
「嘘っぺぇだは、さだめし、嘘だ。こいつは、教祖様の所さ突き出して、追物おうものの刑だべ」
 他の教徒が聞いて、不気味に笑い出す。
「そいつは良え」「お前、うめえこと考えたな。さっそく弱らすべ」教徒の矢が、きりきりとしぼられていく。笑い合ったまま。


 囲まれた僧は静かだ。腐卵臭の風が、風車を回して吹き抜けた。


「……早ようしてけれ!後ろがつっかえとるど!」
 待機列の後ろから、娘の声が上がった。他の入信者も加勢するように、つべこべとまくし立てた。
「んだ!待ちきれね!」「細けぇこと言うだな?」「お供えを、きちんとやったべよ!」
 疑われていた僧も、ぺこぺこと巨木を拝み出した。

 教徒たちは、それぞれが入信者に詰め寄られ、話し合えない。その全てを矢で脅すことは、人数の無理があった。やがて僧の前の教徒が、しっしっ、と手を振った。
「けっ。勝手にすれ」



 生ける物のない岩肌を、教徒の列が登っていく。かろうじて、高熱の湧き水。もしくは地蔵が埋まり、風車が突き刺さる。あとは岩のみ。地獄さながらに。
 教徒の列の中には、僧と娘がいる。僧は声をひそめて、娘を問いただした。
「なぜおる。きつく柱に縛ったぞ」「なあも、なあもどうってことも。坊んさんも物を知んねぇな?」
 横で歩く娘が、自慢げに鼻の下をこすった。
「結んだものは、ほどけるだど」

 僧は、己の眉間が盛り上がったのを、指で押し戻した。そして言った。
「やり方は聞いておらぬ。来るなと言うに」
「ははん。女が山さ入えったら、ばっちくてなんねぇか?」
 娘は真面目くさり、えんがちょを切って見せた。

「心にもないことを」
 僧は相手にしない。すると娘が、ひじでぐりぐりと僧を押す。
「ええのけ?もっと恩に着ねぇで。さっきの坊んさん、えらい剣幕だったど。誰かがああ言わねば、今に暴れ出してたっぺ」

「……あれしきの事、如何ようにも…………」
 僧は半端に腕を組み、またしばらく黙り込んだ。
「…………………………………………そうさな。助かったわ」「お?」
 娘はひじをやめ、背を伸ばして僧の顔を見た。僧は巨木を見ていた。娘はまた前を見たり、僧を見たり、した。
 僧があとを言い繕うことはなかった。娘も巨木に向き直った。
「うん。わかれば良え」





 人の背丈よりも大きな杭が、二重に山を巡っている。柵だ。弓弼の所在を守る内柵には、簡易な鳥居が建った場所がある。鳥居を入ると、道の左右をずんぐりとしたふくろうの置き物が固める。

 道の先には、場違いのようなひばの木張りの壇が置かれていた。壇の中央に法主きょうそ千眼せんげんが座る。教祖は白頭巾をかぶり、素顔を明かそうとしない。見る者は、頭巾に縫われた『手のひらに目』の紋に畏怖をかき立てられ、目をそらした。


 壇の下には、新入りの教徒たちが呼び集められていた。古株の教徒が彼らに話す。
「お前たちは、弓弼せんじゅ様のお力が、まだ信じらんねか知んね。まず、入ったばっかしだから、無理もねぇことだ」
 古株が話に熱を入れる。
「すれば、この仏降ろしこうれいを、一目見れ。疑う心は、さっぱり無くなっちまうど」

 古株は新入りの一人を立たせ、壇上で教祖と引き合わせた。
「さあ先生、お願いします」「うむ」


 教祖は自身の小弓を、弦を上にして立てた。そして矢で弓を、木魚のように打った。びょん、びょん。糸が鳴る。場に神妙な空気が流れた。
「すぐそこまで来ておる……」教祖が一言発する。

 新入りはなりゆきを見ていた。びょん、びょん。教祖が言う。
「霊がおる。なんじと語りたがっておる者の霊だ。身に覚えがあるな……」
 新入りは、うさん臭げに距離を取ったまま、口を開く。
「……おらが小さい内に、亡くなった姉さがおった。そのことけ?」

「その者。引き合わせて進ぜよう」
 教祖はいっそう激しく弓を鳴らし、もう片手では数珠をこすり合わせた。数珠の玉には獣の牙や爪が混じり、じゃりじゃりと異音を立てる。

「なむ、せんじゅ、だいごんげん。なむ、せんじゅ、だいごんげん……。むっ」
 教祖が唱え、がくがくと痙攣する。すると、壇の奥に張られた幕をかき分けて、白い手が二つ。ぬっと突き出してくる。
「ひょわ」新入りはどたりと尻もちを打つ。


「……おらは『さや』だ」教祖が語った。「ほ、本当け?」新入りが、驚きを押して食い付いた。死者の名前を言い当てられたのだ。

 奥からの手が、ゆらゆらと手招きをする。教祖がこれに合わせて言う。
「ああ、本当だともよ。お前の寝顔はようく覚えとる。おらが熱出して、お山さ来たなくなった日には、お前は一晩中泣いてくれたな。大きくなって、まあ」

 新入りの教徒は、奥側へと立ち上がった。
「ああ、姉ちゃ……」涙をにじませながら、奥からの手を取ろうとする。だが手の方が、新入りをぴしゃりと叩き返した。
「だども、それからが良くねかった!」教祖の声。

「な、なしただよ?」新入りが手を引っこめようとする。今度は、奥からの手が掴み返す。
「お前は、利益をくれるかもわかんね、よその神様を頼ってばかり。現世におられる弓弼せんじゅ様を、ちっとも拝んではけれね。おらの回向をしてけれねかっただな!」

 奥からの手は指先を引きつらせ、新入りを離さない。新入りは弱りはてた。
「ごめんよう、姉さ」「弟さが不信心をしていたバチで、おらは地獄の鬼から、石を積まされた。来る日も来る日も、積まされた!とんでもねぇ事ったべ!?」
「ああ、悪りかった。すまねかったよう」
 新入りは小さくなり、ひた謝りに謝った。すると、そんな新入りの手を、奥からの手は柔らかく取り直す。

「それももう、過ぎたことだ。お前が正真正銘の神様のもとへ来てくれたで、おらは許してもらった」
 奥からの手が、お札を持ち出してくる。お札には教団の紋が。さらに黒々とした太字で、『肉食免にくをたべてもよい』『決定往生かならずてんごくにいく』などの断定的な語が踊っている。

「この、ありがたいお札をもらってけろ。初めはタダだど。これさえあれば、ばっちり極楽行きだ」
 手がお札を、よく握らせた。新入りは放心しながら壇を下りてくる。その手は結局、服にお札を結んだ。


「はい、えかっただな。次の者ー……」
 古株が、新しい教徒を追い出し、次の新入りを壇に上げる。こうしたことが何度か行われた。信者歴の長い者は、鷹の羽や砂金、獣皮といった交易品をみつぎ、より手厚い降霊を望むのだった。


 新入りの中に混じった一揆衆には、動揺が広がっていた。
(まさか……)(死んだ親兄弟しか知んねような事まで……)(何を。仇の親玉の言うことだど……)(本当に死者の声が聞こえとるのでねか……?)

 降霊会は続き、ある娘の番になった。

「お花や、お父だど。こっちが、お母だ」計四本の手を呼び出して、教祖が言った。

 降霊を受ける娘が、奥へと立ち上がる。娘は、手そのものをよけて、幕に触れようとした。
控えよ!涜神となるぞ!」教祖が元の声色で、どすを利かせた。


 娘はすくみ上がり、教祖を振り向いた。
「だってよ」「何が、だってぞ?目上の者の言には、よく耳を傾けよ」
 奥からの手の一つが、娘をおどかすように拳骨を上げた。

 娘が山の外を指差して言う。
「おっ父もおっ母も、きちんと墓さ入れたから。ここさ、おるはずねぇべ」
「ふむ……」教祖は怒らせた肩を、ひとまず下ろした。そして言い返す。「なるほど墓にはおろうな。されど骨のみ。ただ抜けがらのみのこと。体を出でた霊魂は、我らが霊山に導かれた。千手の枝に宿り、大樹へと迎えられたのだ。我が天眼通せんりがんが、確と見たことだ。さあさ、気が済んだろうな」
 教祖が咳払いをする。男の手と女の手が、また娘を呼ぶ。

 娘は手とじゃれ合った。
「お前がようやく……」教祖が弓を鳴らし、語り出す。そこで、
「いんや?気が済まねぇ。まず墓さ参って、聞いてみねばよ」娘がかぶせて言った。


 また振り返る娘と、教祖の白頭巾が見合った。しばらくののち、教祖が、ふ、と聞こえよがしな息をついた。
「まあ、念を入れたくば入れよ。だが、大層な回り道をしたがるものだ。なんじの父君も母君も、かく目と鼻の先におわすではないか?」
 奥からの手が、娘を囲み、だだっ子をあやすように揺れた。

 娘はその手のひらをくすぐる。手は耐え切れなくなったのか、奥へ引っ込んだ。

「こちょべ ェ エ……」山頂から、かすかな声がした。
 教祖の演奏がふつりと止む。

 直後、何かが幕を切り裂き、娘に迫る。

 娘の両脇を、二つの質量が駆け抜ける。並ぶ爪に、血脂の染みた剛毛。物体は、熊のよく肥えた前足だった。娘は髪の先を落とされて、それでも身動きしなかった。
 娘は、熊の手に背を見せないよう、じりじりと後退する。
 壇のへりまで来ると、娘は言い残した。
「孝行だば、おらがする。ひとの手を借りることもねぇ」


 教祖は矢や数珠を、床板に置いた。
「……弓弼せんじゅ様はご立腹である。いまだ蒙昧なる徒がため。降霊はここまでとする」
 教徒たちは神罰を恐れ、頭を地べたに付けていた。
「後の者については、またの機にて応じよう。信ずる者に、弓弼せんじゅ様は寛大なり」
 この言葉で、教徒たちはまた壇上を見上げた。
 教祖が、娘の頭上で声を張る。
「……供え物を奉り、信心を示すことだ。地獄へ下りたくなくば、な!」



 降霊会から解放された一揆衆たちは、主な者を岩陰に集め、密談を始めた。何人かが改心して、一揆を抜けてしまった。その他の仲間たちも、細かい整理がつかないでいた。
 一揆衆たちは行きづまって、僧を見た。最初に腰を下ろした僧は、こめかみに指を当てたまま、まだうんともすんと言わない。

 ようやく僧がひとこと、「求聞持ぐもんじ」とつぶやいた。「なんだ?」「なんだべ」一揆衆たちは困った。
 僧は続ける。
「寺に蔵する調伏の記録を、俺はそらにして来た。あの千眼とやらの妖術。世に現れた例があったわ」「聞かせてけろ」


 僧は泥に字を書いてみせた。
「あは、『さとり』とあだ名される術じゃ。山の不死しなずが用い、相対した人の心を見通す。お前さんらは誘われるまま、何か念じてしまったな?」
「んだな。まず誰と会いてぇとか……」「あっちで元気しとるだか?とか……」「気になるべさ」一揆衆で、降霊を受けた者たちが認めた。

「不死は、その情けに付け込んでおるのだ。あたかも死者の姿を取り、甘い言葉を吐く。しかして、お前さんらに答えを浮かべさせ、盗み取っておるのみ」「……おら、おじちゃんと顔合わしたことねぇどもな?」一人が不思議がった。

「生前に親しからずとも、その人に望む言葉はある。俺たちの心中を知るあちらが、俺たちを感じ入らせることは、まことたやすい」「はー……」皆が声を漏らした。
「だどもよ、まかり間違えて、本物の法力がある坊ん様だったら……」まだ不安げに問う者がいた。それだけ未知の体験だったのだ。

 僧はこれにも答える。
「……法師ならば、なおけしからぬわ。盆や命日にはいざ知らず。年中みだりに死者を呼び付けること、あいならぬ。縁深き仲も、所在が離れれば、疎遠となろう。生者と死者とも、そうあるべきものぞ」

「おらは毎日墓参りするど。離れてねぇ。朝も夕も……」娘が主張し出す。
「ともかく、恐るるに足らず。全てを見通すなど、口上に過ぎぬ」僧は取りまとめて言った。一揆衆たちは一人、また一人と、ばらばらに千手教の中へ戻っていく。


 最後に僧が立ち上がると、

 ずど。

 一本の大矢が。僧は両の目を大きく開く。僧に触れるほどの近さに大矢が降り、地に深々と刺さっていた。僧は短杖を振り出し、二の矢に備えた。

 追い撃ちはしてこない。かといって、誤射ではありえない。僧は左右を見渡す。地上の敵を探して。
(……これほどの矢、弓弼でなくば撃てぬ。だがあの無分別な不死が、教徒のいちいちを見張ったりなぞ、するものか。密告者がおる……!)
 僧は用心した。しかし、どこにも監視の目はなかった。教徒は一人居るものの、ちょうど僧に背を向けているのだった。
「面妖な」僧は唸った。



 夕刻。教徒たちは、荒れ山で宴会を開いている。一番丁重にもてなされているのは、狼の不死だ。もう頭と背の皮だけとなって、畳まれている。供え物――木の枝の薄皮をくるくると削り出した――と、酒が囲む高位の席に、狼は置かれていた。
 続く席次に、新しい入信者たち。

 幹事役の千手教徒が、来客と手土産――すなわち獲物と肉――を喜ぶ詩歌を、やり終えた。食事の段となる。配られた料理は、もと千手教に狩られた獲物だ。ただの獣も、不死の獣も、混ぜこぜに料理されている。

 幹事役が入信者たちに向き直って、言う。
「さあ新入りの衆も、食え、食え。食わねかったら……」
 皆がしんとする。
「ご馳走のことを、食わね者など、おるべか。ははは」
 皆が笑う。


 茶碗のそばに、ぼたぼたと汗が垂れた。うつむく僧、その汗が。料理は、様々な肉でできている。謎めいた千手教は、菜食を禁ずる掟を敷いていた。それは、僧の本来の信仰とぶつかり合うものだ。

 僧の横には仲間の一人、一揆衆が座る。その者はいったん教義を受け入れ、汁をすすっていた。僧は彼と千手教徒とを見比べる。よそ者の僧には、ほとんど同族に見える。

 僧は一揆衆ににじり寄る。周囲に気を張りつつ、聞いた。
「お前さんらも、あのような狩りをするか?」

 二人ともに、宴会の外を見た。山中、多くの獲物が、野捨てのままになっている。もっと獲物を集めようと、血や内臓の処理すらされることはない。
 一揆衆が、手を横に振った。
「おらたちは違ぇ。もし、神さんを狩って捨ててばかりだば、国さ帰った神たちから、噂されます。『あの村さ行っても、ちっとも良くしてもらえね。来年は、行くのよすべ』と、こんな具合です。神たちから見離されちまって、まず不猟になりますべな」
 一揆衆の方も、顔を寄せて。
「……千手教には、そこまでの考えがね。先がねぇですだ」

 僧は一応のうなずきを返した。雑食生活に身を置かない僧は、この種類の対立に本当の意味では立ち入れなかった。

「味はいかなものじゃ」僧は問いを変えた。

 汁を食べていた一揆衆は、少し言いづらそうにした。
「獣の肉はうめぇ。シナズの肉は……、食わさらねぇこともね、です」
「やはり。不死はその本性、日の経ったむくろであるゆえ」
 僧は持てる知識を出した。それから言葉を探して、宙を見た。
「……ゆえ……に、ぞ。獣の不死というは、干物や漬物が歩いておる如き。腹に入れば、同じ事やも知れぬな」「違ぇねぇです」
 これは一揆衆も同感のようだった。


 それから僧は、上方に顔を向けた。山を一周する柵。次に下方遠く。外の森に。一揆衆がうなずく。彼の風呂敷は、伐採具の形だ。
 集めた情報では、教祖千眼だけが、寝食の時も壇にこもっているのだという。事実、この宴会にも同席しない。弓弼を目指す一揆衆には、最後の邪魔者と言える。

 そこで、この宴会の手薄を利用して、一揆衆の偵察が内柵を越えておく。その計画であった。
「よいな。事がうまく――」「話すばかりでなく、食っとるけ?」そこに幹事役の千手教徒が割り込んできた。
 幹事役が僧を、食い入るように見る。虫の頭部を持つ不死。その異形の下顎が前後に開いた。表情は読めない。

「ああ」
 僧は大ぶりの肉を取り、喉を通す。それから言う。
「……しかし因果の身ゆえ、節々が痛む。湯治に出てもよいか?」

「それは、それは。湯桁はあっちさある。ご神前だから、よく洗えな」
 虫の教徒は、しかし気を許したのか、宴会の外を指差した。




「ここを打て」僧は己のみぞおちを指した。
「えい」娘が、僧の腹を遠慮がちに殴る。

「気が入っておらぬ」僧がまた言った。
「恨まねぇでな」娘は助走をつけて、やり直した。
 僧は殴られ、ごほ、とむせる。
 吐き戻されたものを、僧は薬包紙で受けた。紙を畳んで埋めてから、僧は地面に謝った。


 僧が立つ。娘は、お腹をさっと隠す。
「おらはやんね。お肉がいたましすけもったいないから
「やらぬがよい。在家に及ぶ決まりでもなし」

弓弼せんじゅ様!お食事をば!」教徒の声だ。僧たちは、身を低くしてそちらを見た。

 柵のすぐ外側に、大皿を頭上にする教徒たち。そこへ、柵からはみ出た長腕が、教徒たちから皿を奪う。腕は、皿を巻き込みながら丸まり、柵の中へ戻っていった。

 柵の中心には、西日をさえぎって立つ、巨大な影がある。弓弼である。

 めきめきめき。しばらくすると、弓弼の幹から天へと伸び上がるものが。新しい枝……いや、枝状に組み替えられた、狼の足だ。多足の不死を食べ、死体のありようを引き継いだのだ。
「おぞましいことよ」と、僧は言った。


「ゆをたもォ オ オ」山が揺れた。娘と僧は耳を押さえたが、意味がなくなるほどの銅鑼声だ。

 斜面を押されてきたものは、巨大な湯桶だ。弓弼の長腕が、湯桶を縄で引き込む。腕が湯桶をお手玉のように渡し、上へ運んでいく。
 肩に乗った明かりに、湯桶が渡る。その者が湯桶をあけた。ざんぶり。湯が滝と流れる。人物があちらこちらに動く。湯桶はひっきりなしに山を登り、下る。日は落ちていった。

 弓弼がぶるりと震え、夜空に湯気を吹き払った。
「ごくらくゥウ ウ」巨体の不死が鳴動する。声が、またも僧たちの所を突き抜けていく。

 娘が口を左右に引っ張り、歯を見せつける。
「いーっ。体洗うぐらい、童こだってできるど!」
「ああ大きうては、叶うまい」僧が言った。



 夜半。寝床を抜けた一揆衆たちは、何組かに分かれ、内柵の前に張り付いていた。柵を越えた偵察からの手引きを待って。
(うまくしたべか)(案ずることはねぇ。月がねぇすけ、矢の狙いが合いっこね)(千眼の野郎、まずあの世さ行ったべ)(だと良ぇども)


 こんこん。木杭を叩く音がした。一揆衆や僧は、柵の内側をにらんだ。何者かが立っている。
(山……)柵の外から一揆衆は、呼びかけた。

(ほー)柵の内の影が言った。

 一揆衆たちは怪しがる。
(おい、合言葉を持ってねぇど)(誰だ?)(よく見えね)一揆衆たちは、たいまつの覆いをめくることにした。

 柵の向こうの人影が、ぼうっと照らされる。それは偵察の一揆衆だった。しかし、背丈がおかしい……高すぎる。宙吊りになっていた。目玉がぽっかりとくり抜かれ、頭はとがった何かで掴まれている。

 偵察の背後に、浮かび上がるもう一つの影。
「ほー?」それがもう一度鳴いて、小首をかしげた。
 ふくろうであった。羽の生え揃わないまま育ち、いや、成鳥よりもずっと巨大化した、ひな鳥であった。胸にかかるよだれ掛けが、鮮血で染まっていた。参道を見張るふくろうは、置き物などではなく、夜行性の不死だったのだ。

 どさり。ひな鳥の不死は、偵察の体を捨てた。ついばみ始める。
「うっ。う」ひと噛みする度に、偵察が小さなうめき声を上げる。

 口を押さえていた一揆衆たちだったが、
「酷ぇ」と、一人の口が漏らした。

「ほっ?」ひな鳥がぐるりと顔だけを回して、こちらを見る。興奮し、羽ばたき出した。「ほぎゃ。ほぎゃっ!ほぎゃあ!ほんぎゃあっ!」
 その鳴き声は、赤子の夜泣きのようなものに変わっていく。山中に響く!異状を知らせるように!


「わっ、……わためかせやっつけろ!」
 一揆衆たちが斧を抜き放ち、目の前の杭を乗り越えようとした。
「待て。聞こえるぞ」僧が言って、行く者の背を掴む。


 ひゅるるるる。風切り音が落ちてくる。
 ひな鳥が大股で飛び下がる。同時に、どどん、と光の柱が並び立った。火矢だ。柵の向こう側、一揆衆たちが降り立つだろう地点を、貫いて照らした。

やまがつゥ ウ ウ!」山頂の弓弼が、山中に号令した。

 ひな鳥は後ろ爪で偵察を引きずり、闇へと去る。一揆衆たちの後ろ、教徒の寝床が騒がしくなった。
 火矢の青さ。今度は一揆衆たちが照らされた。教徒が駆け付けるまで、そう長くは無い。
「……やけに用意がよい。夜討ちはばれたか」僧は推測した。

「口を割る男ではねぇ!」ある一揆衆が怒った。
「だが、心を探られてしまえば」と、僧。「……それは……」

「捕まえた一人をだしに、一網打尽のつもりよ。ここはひくぞ」


「坊ん様……!」
 一揆衆の若者が、僧の両肩を、強く掴む。きり、と歯ぎしりの音。
「……次は、止めねぇでけろな」

 ぴ!伝令役が、指笛を鳴らし合う。一揆衆たちは、教徒にまぎれるべく、引き返した。



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坊主が妖怪に毒を食わせて殺す話

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