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沈黙を最大の悲鳴と捉えることができたなら。

ひとは本当につらいことの前では沈黙する。あるいはさせられる。

単にその事象にふさわしいと思える言葉が浮かばないこともある。
しかし、「つらい」「苦しい」の一言をも発することができないこともある。

それは本人自身の状態の問題だけではない。
社会的な構造、そこに根差した偏見、蔑視がひとから言葉を奪うのだ。
そして、そのひとらの苦しみはなかったことにされる。
なぜなら明るみに出ることはないから。

明るみ、公、それは強者しか座ることの許されない席。
かろうじて段ボールを敷いて座ることを許された者も、いつそのダンボ―ルが床からはがされるかおびえて座っていては声を上げることも困難になる。

そんな強者にとって快適で、声を上げることが容易な社会。
そんな社会で、発することのできなかった声や、埋もれた声を聴く場がもっと必要だ。

その人の靴を履かないとその人の気持ちはわからないとはよく言うが、
そんなのも無理だ。
人の気持ちなど理解できない。傲慢にもほどがある。
強者こそ相手の気持ちに立とうとするが、わかった気になられても困る。
わかった気になって、勝手に説明することは、結局その人を支配することだ。
ほら、やっぱり強者の考え方だろう。

何もかも説明書きが必要なほど世界は複雑なのだ。
これ以上一部の強者が快適に暮らせる世の中で弱者として踏みにじられてたまるか。
強者の世界には説明書きで事足りるのだろう。
それ以上の情報は単純化、効率化を追い求めた結果勝手に消えて見えなくなったのだろう。

世界は一つ一つに説明書きが書けるほど単純ではない。
そのことを知っている私たちは強者よりもずっと最強なはずだ。
私たちには黙る権利がある。つまり声を発する権利もある。
うるさいうるさい黙れ黙れ
私たちはキレることだってできる。
しかしできないのだ。
強者からの視線は刃物より鋭利だ。自分の足元をすくわれるとおびえる強者たちからの大砲はよける暇もなく私たちを何度も奈落の底へと吹き飛ばしてしまう。

言いたくないことに対してなぜ黙ってるのかと言われても困る。
当事者の声を直接聞くことが大事だと言われても困る。
黙っていては誰も何もわかってくれないし、この世界は変わらないよといわれても困る。

そんな元気ないのだ。
理不尽に社会が奪ったのにまだ社会のために何かしろというのか。
そんな声が出せる元気があれば頼まれなくとも、言われなくともやっている。

もっとひとの事をわからないでいることを前提に、
話せる元気のある人の声だけではなく、沈黙に耳を傾け、
いつでもその沈黙を破っていいのだという空間を作りたい。

その人の苦しみだけでなく、苦しんでいる人に苦しんでいるイメージを押し付けるわけでもなく、日常の小さな幸せを分かち合う延長線上に苦しみの発話が生まれるような、それが許されるゆっくりとした時間の流れる空間が必要だ。

そこでは沈黙がもっとも大きな悲鳴に聞こえるだろう。

さて、やさしい風の吹く春が来ました。


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