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SS怪しい高層ビル

#ショートショート記録 #5分で読めます

会社からの帰り道ー
駅を出ると騒がしい若い男女の声と居酒屋前で屯ろするサラリーマンの楽しげな声などが雑多に聞こえてくる。
気分が悪いのでそちらの方をわざと見ることなく、黙々と私は帰路に着く。


今年で27になる。仕事もプライベートも充実させていこうと意気込んだ22歳の春からもう随分と時が経ってしまったようだった。今までだって十分にやってきたつもりだった。これからも十分にやっていくつもりだし、それをこなせるだけの優秀さを私は持ち合わせているはずだ。そう思ってやまない自分のプライドの多くが自分を苦しめている。


そんなことを思ってずっと下を向いていたのに突然煌々とした光に照らされた。オレンジ色の強いネオンの光。


私は上を見上げた。「こんなところに、こんな高層ビルがあったっけ。」
青々とした外装に、オレンジ色のネオンが光った高層ビルが佇んでいた。


名前も看板もない。商業ビル?アパート?それとも新しい形のホテル?
私の記憶にはない。

「いつ立ったのだろう。」


私は数年ぶりに訪れた新鮮なワクワク感を感じていた。
こういう時に私は物怖じしない。そんな女ではない。
ゆっくりと足を踏み入れる。


入ると目の前にはエレベーターより他、何も無いようだった。
「怪しすぎる。」
そう呟いたとき。


「ようこそ。初めてのお客様ですか?」
男性の声が聞こえた。


振り返るとそこには背丈の高い、すらりとした、30代くらいの男性がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。


なんだ。普通のビルじゃあないか。私は返事をする。
「はい。あの、一体ここはどのようなビルなのですか?」
男性はゆっくりと話始める。
「ここのことは口外しないようにお願いできますか?」
「え、ええ。」


「こちらは思考を捨てることのできるビルです。」
「思考を捨てる?」
「このビルの展望階に足を踏み入れると、どんな人間でも魚になることができます。」
「さ、さかな?」
「はい。魚になってくるくると何も考えない時を楽しむのです。」
「はあ。」
「試してみますか?」


人生でここまでスリリングな質問に答えたことはない。
そんなはずはないと思いながらも、再び訪れたドキドキワクワクに
これまでにないほど、胸を踊らせていた。
「はい。魚、チャレンジします。」


男はエレベーターに乗り込むように案内し、46階を押してこういった。
「リピーター率が高いんですよー。」
案内された46階は目の前に大きなガラスが全面に広がっていた。


「足元をご覧になってください。」
私はゆっくりと下に目線をやる。
なんと、先ほどまで歩いていると思った動きは全て尾ヒレの動きで水の中を進んでいた。
男は言った。
「十分に楽しんで。」


周りを見ると多くの人、いや魚が流れにそって自由に動いている。
なんと、、これは全部人間なのか?
疑問に思うことが大半だったが、とりあえず男の姿が見えなくなってしまったので、流れに沿って私も泳いでみることにした。


泳いでいる感覚は一言で言うと、体感したことのない快感だった。
人間の時に泳いでいる感覚と全く違う。
流れている。浮いている。そんな気持ちの良い感覚だ。
私は前の人について行ったり、後ろに泳いだり、流れのままに動いてみたりと色々な動きをした。
動いている間は会社での人間関係や結婚を急かす親や社会からの目線、嫉妬や憎悪などの感情でさえも忘れることができた。


数分か、数時間か、時間の感覚も忘れた頃、男が不意に現れた。
「いかがですか?気分は最高でしょう。」
「はい。今までにない感覚でした。」
男と話していると目線の先に、来た時のエレベーターが見えた。
そこに向かう私の足元はすでに2本足になっていた。
「またいらしてください。」
男はまたにこやかに微笑んで、私を送り出した。


数日たった頃ー
私はすっかりあの怪しい高層ビルで魚になることが癖になっていた。
寂しい都会の真ん中にアレがあることは卑怯だと言い訳して。


7回目か、8回目か、その辺りを超えたころ

いつものように私たちはエレベーターに乗り込んだ。
私は男に他愛も無い会話をした。「前にリピーター率が多いって言ってたじゃないですか。その理由が何となくわかります、思考を捨てる感覚は癖になりますね、」
「それはありがとうございます。もう、今月は10名以上の方がリピートされています。」
私は尋ねた。

「そういえば、あなたはなぜ魚にならないのですか?」


案内役の男は笑ってこう言った。
「私は人間では無いからです。ここは魚の生態系保護のために用意された、人間のための人間による、人間水族館なのですよ。」



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