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国東半島のみち 〜国東半島峯道ロングトレイル〜 (5/6)

5日目(行入ぎょうにゅうダム公園〜梅園ばいえんの里)


再びトレイルへ

朝7時、呼んでおいたタクシーが宿の前についた。宿の主人に礼を言い、別れを告げる。昨日夕暮れの中を2時間以上かけて歩き下った道を、タクシーはあっという間に駆け上ってゆく。

運転手によると、峯道トレイルを歩く客はたまに乗せるという。朝にある地点まで送ると、夕方にどこそこまで迎えに来てくれ、という感じらしい。やはりタクシーを使ってセクションハイクするのがこのトレイルの一番自然な利用方法だろう。

「怖くないんですか?」

と、運転手も聞いた。意外なことだったが、地元の方ほど山を怖いものだと思っているのかもしれない。

確かに麓から見上げる国東の岩峰は、人を寄せ付けない威厳を持ってそびえている。宗教者達が修行に掻き立てられたのも、わかる気がする。その頂や峡谷の奥深くには人智を超えた何かが住んでいる、と想像したかもしれない。

畏敬の念と言ったらよいか。あるいはただよく知らぬが故に恐れるのか。いずれにせよ山と人との自然な関係とは、本来そういうものかもしれない。

狭間新池はざましんいけ

この日はK4コースとK5コース、計28㎞を歩く。距離は長いが高低差は少なく、比較的歩きやすいはずだ。

トレイルは行入ダム公園から南へと向かう。万の岩という崖上の岩から行入の郷を一望する。さらに進む。杉林のところどころにホダ場やクヌギ林が広がっている。このあたりが世界農業遺産としての真髄であろう。

峠を二つ越えたところで狭間新池というため池に出会う。なんと堤が野面に積まれた石垣である。おそらく手作業であろう。石垣の上にすすきが茂っている。それが緑色の水面みなもに映って、一直線に伸びている。

この池も無論人為の産物ではあろうが、もはや自然の景観だと言っても許されるのではないか、といった気になる。特異な景観だと思ったが、あるいはもしかしたら、そう遠くない昔には日本の山里のどこにでもある風景だったかもしれない。

報恩寺ほうおんじ

堤の上を渡って南西へ進む。林道を抜けると開けた谷あいに出る。空は一面に青く、道端には菜の花が鮮やかだ。

トレイルはやがて武蔵川という流れを渡る。苔のむした石畳の、坂の小路を上ると、右手に丸小野寺まるおのじの山門を見る。この寺は国東の多くの寺と同様、大友氏の兵火に遭って焼失し、江戸時代になって再興されたものだそうだ。境内にはここにも国東塔が佇んでいる。

武蔵川がつくる谷あいを下流、つまり南東へと進んでゆく。川はやがて北を並走する狭間川と合流する。その先に報恩寺ほうおんじがある。隣接する報恩寺公園がK4コースのゴールである。

公園の桜はその開花をあと数日の間に控えているようだった。一人歩きを始めたぐらいの幼児と、その母親かあるいは祖母らしきご婦人が、しゃがみこんで静かに遊んでいた。こんにちは、と声をかけると、幼児は少し怪訝な顔をしながら、小さな手を振ってくれた。

吉弘よしひろ

少し休憩をとって、K5コースへと歩を進める。報恩寺の手前で狭間川と合流した武蔵川は、今度は南側を東進してくる吉広川と合流する。その合流地点を切り返し、トレイルは吉広川に沿う谷あいを西へと進んでゆく。

楽庭神社がくにわじんじゃという神社がある。八幡社である。国指定重要無形民俗文化財に指定されている「吉弘楽よしひろがく」という楽打ちが奉納される神社として有名らしい。境内では老年の紳士が一人、落ち葉をかいていた。挨拶をすると、

「あれ、二・三日前にもきたかね?」

と言った。いいえ初めてですよ、とぼくが答えると、そうかね、とちょっと照れた様子で笑った。ぼくはこの旅で他のハイカーや登山者には一人も出会っていないが、トレッキングの格好で訪れる人が少なからずいるようである。どうもお邪魔しました、と紳士に別れを告げて神社をあとにした。

トレイルはここから、谷筋を離れて一度南の山のほうへと入っていく。しばらくゆくと、小高い丘の上に石碑が建っている。碑には簡潔にただ「吉弘城址」とある。あたりは草木が茂っているのみで、静かな空間である。

このあたりはかつて吉弘氏の領地だった。南北朝の時代に、この半島を納める大友田原氏の人間がここ吉弘村に封ぜられ、吉弘と姓を改めて治めたという。

西光寺さいこうじ

トレイルは右に旋回して、再び北の谷あいに戻る。車道を西へ上ってゆくと、右手に西光寺さいこうじという寺院が見える。臨済宗妙心寺派、とある。禅寺である。天台宗の寺院が多い国東半島において、禅寺はめずらしい。

境内に入って参拝に来たらしい老紳士と会話をしていると、これがなんだか有名なものらしいですよ、と境内左側に立つ石塔を指して教えてくれた。国東塔だった。その塔身には小さな仏が浮き彫りにされている。南北朝後期に造られたものだという。

うちのほうではもう桜が咲き始めました、と老紳士は嬉しそうに教えてくれた。集落のそこかしこに生えている桜の木々は、もう間もなく一斉に色づいて、住民らの心を温めるのだろう。

陽気な二人

トレイルは西へと進む。クヌギ林とホダ場が広がる山間部を越えてゆくと、北から南へ流れる両子川ふたごがわがつくる谷筋の平地に出る。両子川に沿って南に下り、光蓮寺こうれんじ八坂神社やさかじんじゃを見たところで川を西に渡る。そのあと今度は川沿いを北上してゆく。

きれいな小川のそばに田畑が広がっている。道端には春の花々が咲く。所々につくしが出ている。遠景にヤギが草をはんでいるのが見える。

前方から歩いてくる散歩中の老紳士二人と挨拶を交わすと、

「どこまで?両子山へ行くんか?」

と興味を示してくれた。峯道ロングトレイルを歩いているとぼくが言うと、

「いやぁ、若えのに大したもんや!」

と彼らは連呼して、感心した様子だった。何が大したもんなのかはよくわからなかったが、嬉しそうにしてくれてこちらもなんだか晴れがましい気分になる。

体力面でいえばふつう若いほうが有利だから、そういうことではないだろう。「こんな田舎を歩くなんてなかなかシブい趣味をしておるな!」というぐらいの意味だっただろうか。

どこの人かと聞かれて、三重県の生まれです、とぼくが答えると、まさか三重県の人に会うとはのう、とまた嬉しそうな様子である。

このすぐ先の左側に神社がある、そこはお伊勢さんを祀っている、昔は伊勢までは滅多なことでは行けないのでお参りできるようにここに建てた、といったことを彼らは教えてくれた。通る時に手を合わせとき、と二人は言った。

お伊勢さん

笑顔で見送ってくれる彼らと別れて進んでゆくと、教えられたとおり、左手の上り斜面に石段が伸びていて、その上に杉の木々に囲まれるようにして社殿が建っている。

道路の右手には石の鳥居が立っている。神額に「太神宮」と彫られている。鳥居の足に年代らしきものが書かれているが、地衣類を纏っていて読めない。

後で調べると、名を伊勢両大御神社というらしい。建立時期とかその他のことはよくわからない。峯道ロングトレイルのルート上だが、コースマップに名前は出ていなかった。

昔の庶民の伊勢信仰への憧れが、こういった無名とも言える小さな神社という形で、各地に残っているのかもしれない。

それにしてもこの地には八幡宮や天台宗を始めとする寺院がいくらでもあるのに、さらに神社をこしらえて伊勢の神を祀る。その信心の深さというか純粋さといったようなものに、不思議な感銘を覚えるのだった。

石段の下から伊勢の神様に手を合わせて、再び歩き始める。

三浦梅園みうらばいえん

だんだんと暮れに近づいていた。トレイルを両子川に沿って北に進んでゆく。しばらく進んで左にそれる道を上ったところに、梅園資料館ばいえんしりょうかんという施設がある。ここは豊後聖人とも豊後三賢の一人とも呼ばれる江戸期の学者、三浦梅園みうらばいえんが過ごした土地だ。

閉館時間までまだ少しあったが、資料館は空調設備の改修の為ということで残念ながら休館だった。裏手には復元された梅園旧宅が建っている。難解な哲学を著した大賢人の住処というから、仙人の庵のようなものを勝手に想像していたのだが、茅葺きの、庄屋屋敷のようななかなか立派な建物である。

トレイルはこの施設の山側を巻いて進むことになっているのだが、ゆく道を見つけられず敷地内をうろうろして、ようやくそれらしい道を見つけた。林の中の、苔で一面緑の石段を上ってゆくと、上から下りてくる四人組と行き違った。そのうちの一人が資料館の管理人だった。

峯道ロングトレイルを梅園の里へ向かっているところだとぼくが言うと、道が違う、と管理人は言った。上ってきた石段はすぐ先で開けて、墓地になっていた。三浦梅園とその親族の墓らしい。管理人と一緒だった三人はなんと梅園の八代あとのご子孫だという。資料館の見学はできずも後裔の方をお見かけするとは、なんとも妙なめぐり合わせである。

管理人は梅園の里へのルートを示してくれた。旧宅の右脇に、山中へ続く小路への入口がひっそりとあった。彼は親切にも、サンダル履きの足で途中まで先導してくれた。

梅園の里

管理人に礼を言い、別れてしばらく進むと、梅園の里にたどり着いた。K5コースの終着点である。旅館やキャンプ場、温泉などを備えた施設だ。

この日はここでテントを張る。チェックインをして温泉に浸ると、すぐにテントを張ってシュラフに潜り込んだ。

この梅園の里には天文台があって、天気さえよければ毎晩、専門家の解説とともに天体観測ができるという。天文学に長じたという梅園の気分を少しでも味わえるかとも思ったが、すぐに休みたいという欲求には勝てなかった。

床につけばすぐにぐっすり、のはずだったが、やはり花粉症のせいでまともに眠れなかった。ぼくのくしゃみに怯えたのか、夜のあいだ鹿の声は聞こえなかった。


つづく

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