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五島列島のみち 〜九州自然歩道・五島エリア〜 (2/8)

2日目(富江→荒川)

2日目の計画ルート(1/2)
※ルート編集アプリ「Trail Note」にて筆者が作成
2日目の計画ルート(2/2)
※ルート編集アプリ「Trail Note」にて筆者が作成

高岳

この日もよく晴れていた。前日に南下してきた道をしばらく戻り、田尾という田園集落のあたりで北西に折れて内陸へ入ってゆく。

高岳という小さな山を経由して繁敷しげじきという集落へ抜けるのだが、その途中でゆく道を誤った。右方向に鋭角に切り返して山頂方向へと進む小径を見逃して、そのまま直進してしまった。

進むにつれて道は次第に草が生い茂り、倒木が連続し、やがて径の判別がつかなくなった。結局30分ほど行ったところで進めなくなった。

九州自然歩道において、各地がどれだけ歩かれていてどういう整備をされているか、といった情報は殆ど存在しないと言っていい。つまりルートの大部分において、トレイルの状況は現地に行くまでわからないのだ。

だから道がどんなに荒れていても、あるいは消失していても、それを理由に「これは違う」と判断することは難しい。結局は地形図とコンパスを睨みながら、怪しいと思ったら引き返すしかない。

七ツ岳

やっとの思いで人里に出ると、今度は岐宿きしく地区を東西に走る県道を西へ進む。このあたりは山に囲まれた平地になっていて、水田が広がっている。

繁敷から4kmほど進むと七ツ岳の登山口にたどり着く。七ツ岳は九州百名山にも数えられる、五島の中では比較的登山者に知られている山である。

登山口は山の南側である。山頂から伸びる尾根の東側から入り、すぐに尾根上に出ると、あとは頂上まで稜線をほぼ直登する。

尾根の東側斜面はカシやシイなどが茂る見事な照葉樹林で、いっぽう西側は見渡す限りの人工林だ。

登山道はよく整備されていて歩きやすく、山腹の照葉樹林も美しい。頂上に近づくにつれて次第に険しい岩稜歩きに変わってゆく。

ほとんどが舗装された車道である五島の九州自然歩道にあって、文字通りの「自然歩き」ができる、貴重なエリアだと言っていい。

一時間ほど登ると頂上にたどり着く。山頂は数人が立てるほどのスペースしか無く、全方位に鋭く切れ落ちている。高度感は相当なものだ。

展望は素晴らしく、南西にこれから下りる荒川の集落が見下ろせる。その先には玉之浦の海が広がっている。

七ツ岳山頂から南西方向の展望

山頂から北へ向かう稜線に沿って、細かいピークを繋いてゆく。この7つの峰が連なる鋸歯のような稜線から七ツ岳という名がついたらしい。連続するアップダウンが体力を消耗させる。

スダジイの巨木の森を越え、七嶽神社ななたけじんじゃを経て、荒川の集落に向かって下りてゆく。狭い谷あいには草地が広がって、鳥たちの鳴き声が響いてくる。

道端にはノアザミの花が咲き、その蜜を吸うジャコウアゲハたちがあたりを舞っている。入江に面した小さな集落にたどり着いた時、すでに日は暮れかかっていた。

荒川の周辺にキャンプ場は無く、集落に宿がいくつかある。釣り船民宿に素泊まりしようと考えたがあいにく空きがなかった。僕の貧乏旅にしては少し贅沢だが、一棟貸しの宿に泊まることにした。

荒川の宿

集落の中ほどにその日の宿はあった。たどり着くと主人が迎えてくれた。若い女性だった。彼女もやはり客が徒歩で現れたことに驚いた様子だった。

荒川は温泉が出る町で、福祉センターに併設する温泉施設がある。どうも近ごろ従業員不足で営業を縮小しているらしい。宿の主人が電話で確認してくれたが、残念ながらその時は営業していなかった。

宿の建物は古民家を改装したもので、手作り感があって雰囲気がよい。

なぜこんなところで宿を営んでいるのか。なぜこんなところに徒歩で現れたのか。互いに興味を引かれたのだろう、宿の主人と少しの間会話をした。

彼女は地域おこし協力隊としてこの近くの集落に赴任し、任期満了を迎えた後にこの宿を開業して、以来この地に住んでいるという。

地域おこし協力隊は総務省が管轄するプログラムで、その名の通り過疎地域の活性化を担う人材を登用する仕組みだが、狙いはむしろ隊員にその地に居着いてもらうこと、つまり都会から地方への移住促進の一貫であろう。そういう意味で彼女はそのモデルケースだ。

隊員時代の活動やその後の歩みについて、とても貴重な体験談を聞かせて頂いた。穏やかに、楽しそうに語る表情が印象的だった。色々な人生がある。それらの一端に触れることができるのも、旅の楽しみの一つである。

3日目(荒川→柏崎)

3日目の計画ルート(1/2)
※ルート編集アプリ「Trail Note」にて筆者が作成
3日目の計画ルート(2/2)
※ルート編集アプリ「Trail Note」にて筆者が作成

高浜

この日は西海岸をひたすら北上し、島の北西端である柏崎かしわざきを目指す。前日までと同じく快晴だった。空も海も森も、鮮やかな色彩で輝いている。

散歩中の夫婦と会話をする。「良いところですね」と僕が言うと「いやぁ何も無いところだ」と言う。田舎での会話の典型だが、半分は謙遜で半分は本心だろう。

「そうでしょう?僕も(私も)ここが好きでね!」と言う人が少しぐらいいても良いように思うのだが、まだ出会ったことは無い。

しばらく北上すると三方を山に囲まれた美しい砂浜がある。高浜という。有名な海水浴場らしい。

浜から眺めると、海は透きとおるようなエメラルドグリーンから次第に美しいコバルトブルーとなって水平線の彼方まで広がっている。息をのむほどに美しい、とはまさにこのことだろう。

まだ海水浴客はいなかった。波の音だけが聞こえる。砂浜の上に鹿の足跡が一筋、海へ向かって走っていて、波打ち際で消えていた。海に入ったのだろうか。

北側の魚籃観音展望所から望む高浜のビーチ

三井楽

さらに北へ進むと三井楽地区に入る。「みいらく」と読む。古くは「みみらく」と言ったらしい。

福江島の北西部で、北側に向けてほぼ円形に突き出ている。京ノ岳きょうのだけという古い火山からの溶岩流によって形成された半島だ。

比較的なだらかな低地が広がっているが、火山性の土壌のためか水田ではなく畑地が多い。海岸は鐙瀬あぶんぜと同じく溶岩海岸で、玄武岩の岩場が続いている。

尼御前の悲話

半島の付け根のあたりに尼御前公園あまごぜんこうえんという場所がある。公園と言っても石碑が一つ立っているだけで、ひっそりとしたものだ。

唐との貿易船に乗った夫の帰りを待っていた尼御前という女性が、この地で船の沈没を知り、夫の死を嘆いて命を絶った、ということらしい。あくまで伝承だが、近くには彼女の墓が祀られている。

三井楽はかつて「死者に会える場所」と言われていたらしい。西方浄土さいほうじょうどを信じる心が、かつて日本にとって最西端だったこの地をそうさせたのかもしれない。

恐らく中央の高貴な身分であった尼御前は、夫の帰りを2年待った末に「たとえ亡くなっていてもみみらくの島にゆけば面影にでも会える」と願って、はるばるこの地へやってきたのだという。

尼御前公園の碑

カトリック墓碑群

さらに北上する。このあたりは海からの風が強い。海岸線に沿って防風林や防風石垣が設置されていて、畑地を守っているようである。

渕ノ元ふちのもとという集落あたり、東シナ海を望むきれいな草原の中に墓碑群を見る。並んでいるのは見慣れた墓石のようだが、どれも上に十字架が乗っている。カトリック墓地だった。

禁教の時代、五島の各地に大村藩領から多くの移民があった。彼らの多くはキリシタンだった。五島の歴史や文化はキリシタン信仰無しには語れない。これはこの旅の終始を貫くテーマの一つとなる。

柏崎

さらに北上するとやがて柏崎にたどり着く。

柏崎はかつて遣唐使船が五島から東シナ海を横断するいわゆる「南路」をとっていた頃、日本最後の寄泊地となった場所である。ここから先はまさに命懸けの航海だっただろう。

少し休憩している間に日は暮れかかり、西の空が橙に染まっていく。

このあたりには宿泊施設が無い。灯台下の公衆トイレの脇でテントを張らせてもらうことにした。人通りも殆どなく、地面が一段下がって集落の民家からは死角になっている。

テントの中で横になる。

空海のことを考えていた。真言密教の始祖として神格化された弘法大師ではなく、密教の真髄を知る為に命を懸けて唐へと旅立つ、まだ無名の若僧だったころの空海だ。

空海は第十六次遣唐使団に留学僧として参加している。西暦803年のことである。当時の遣唐使は南路を取っているから、彼はここを故国最後の地として唐へと旅立ったはずだ。

命懸けの航海を前にして、彼の胸に去来したものは何だっただろう。彼の心は、希望と野心に満ちて躍っていたか。あるいは凪いだ海のごとく静かであったか。いずれにしてもこの海を渡って唐の地を踏んだ時から、彼は歴史の表舞台に躍り出るのである。

稀代の天才の精神である、およそ凡人が想像し得るものではない。山野を跋渉ばっしょうし荒海を超えて真理を求めた若者は、千二百年後の現代になお神格となって存在している。

といった事をとりとめもなく考えていると、いつの間にか眠りについていた。


つづく

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