国東半島のみち 〜国東半島峯道ロングトレイル〜 (1/6)
「わたしも昔、峯入り歩いたんよ」
と、熊野磨崖仏の下で出会ったご婦人は言った。国東半島を縦横にめぐる山岳修業の道、約150㎞を歩き切ったのだという。次の機会があったらまたチャレンジするかと尋ねると、もう年だからねぇ、と笑いながらかぶりを振った。
令和5年の春、ぼくは「国東半島峯道ロングトレイル」を歩いた。国東の地に古くから伝わる六郷満山峯入行のルートをベースに整備された、総延長123㎞の長距離トレイルである。トレイルは半島西側の豊後高田市に属するT1〜4と、東側の国東市に属するK1〜6の全10コースに分かれて設定されている。
このトレイルをスルーハイクする計画を立てた。全コースをできる限り一筆で歩く。部分的に歩くセクションハイクよりも峯入行の気分を味わえるという考えがあった。それに何より、旅は長ければ長いほどその地の雰囲気に馴染むことができて好きなのである。
国東半島は九州の北東部に位置し、瀬戸内海に向かって東西に約30㎞、南北に約35㎞のほぼ円形に突き出したところである。中央部の両子山や文殊山などの群峰から、放射状の峰や谷が海に向かって流れるように走っている。その美しい自然に、人々が田園や集落をつくっている。
六郷満山の六郷とはこの半島の谷筋に形成された六つの郷を指し、満山とはこの地に建てられた大小の寺院群のことである。国東の地では古代から、宇佐の文化圏の影響を強く受けながら、神仏習合の独特な山岳宗教文化が形成されてきた。
その中で生まれた山岳修験者の修行を峯入行という。満山の開祖とされる仁聞菩薩の行跡を辿りながら岩稜や渓谷の霊場を巡る荒行である。起こりは平安期と言われるが、はっきりしたことはわからない。興隆と断絶を経て昭和に復興し、現在も不定期ながら、満山の僧侶や地元住民によって実施されている。
国東の地には、自然と人、聖と俗、古と今とが混じり合う、不思議な空気が漂っているだろう。そんな期待がぼくを峯道へと誘った。寒さが緩み、冬ごもりの生きものたちが目覚める季節に、国東の山岳と郷を歩く、6日間の旅である。
1日目(熊野磨崖仏〜並石ダム)
熊野磨崖仏
トレイルのスタート地点は熊野磨崖仏だが、実際はアプローチルートの起点である鋸山の登山口から始まる。標高542mのこの山は、低山ながらも奇岩怪石が林立していて、登山道は国東のそれらしくスリリングな岩稜歩きとなる。
予定より少し遅れて、午前9時過ぎに登山口を発った。歩き始めるとすぐに「滑落死亡事故発生注意」の看板に出会う。これから歩くのが山岳修行の道であることを思い起こさせる。
急峻な岩稜を登っていく。振り返ると遠景は少し霞んでいて、南の彼方に由布岳や鶴見岳が見える。南の尾根道をしばらく上って、その後山頂へは向かわずに山の北側へ、熊野磨崖仏を目指して下ってゆく。
照葉樹の茂る森の中をしばらくゆくと熊野神社である。ここには熊野権現が祀られている。社には注連縄がかけられ、その手前にはろうそくと線香が供えられている。神仏習合の聖地たる佇まいである。
神社を越えてさらに下ると、凝灰岩の岩壁に彫られた、二体の巨大な仏像に出会う。熊野磨崖仏である。向かって左側が不動明王で、右側が大日如来だ。
不動明王は高さ約8m。表情はなんだかひょうきんさを含んでいて、笑っているようにも見える。ふつう憤怒の相を見せるそれは、ここではどこか優しさや親しみやすさを感じさせる。
大日如来は高さ約7mで、そのイメージどおり、静かで尊容な表情を浮かべている。頭上に被さるように出っ張る岩壁のおかげか、肩から上は造形がはっきり残っているが、胴体部分は風化によりその輪郭を留めていない。
造像時期は鎌倉期とされているが、奈良〜平安期という説もありはっきりしない。どちらにせよ、遥かな時を越えて、往時の信仰の雰囲気を今に伝えている。古代か中世に、岩壁という自然物に彫刻された仏像が、露天のまま今に存在するその威厳は、見上げる者に古への憧憬を抱かせるに充分であった。
苔のむす長い石段を参拝入口のほうへ下りてゆくと、上ってくる地元の方たちとすれ違う。それぞれと立ち話になる。
「一人?いいねぇ」
とあるご婦人が言う。格好で登山とわかるらしい。これから峯道ロングトレイルを歩くのだとぼくが言うと、私も四国に行ったことがある、という。四国遍路のことであろう。
「あんたいいカオしとるね、人に悪いこと言われんやろ!(おそらく、言うことができないだろう、の意と思われる)」
と彼女は言う。どうやらぼくの人相は悪くはないらしい。気ぃつけてな、と笑顔で送り出してくれた。
その先で会話した別のご婦人は、12年前に峯入行を歩いたという。その時の様子やこのあたりのことについて、とても穏やかな口調で色々と語ってくれた。隣の宇佐市に住んでいるという。ここへはよく参拝にきているようだ。
真木大堂
磨崖仏をあとにして、谷筋を走る県道655号線に出ると、それを北上して田染の郷の真木大堂を目指す。真木大堂はかつて田染地区の中心的な寺院であった馬城山伝乗寺の堂宇の一つとされている。
伝乗寺は約700年前に火災で消失してしまったという。真木大堂の境内には現在、江戸時代に再建されたという本堂と、昭和40年代に新造されたという収蔵庫が建っている。
拝観料を収めて収蔵庫に入る。そこには阿弥陀如来像とその周りに侍る四天王像、剣を構えて炎を纏う不動明王像、水牛に跨る六面六臂六足の大威徳明王像などが収蔵されている。どれも精巧な木像で、表面の装飾はおそらく剥げ落ちているものの、ところどころに朱や群青の色が残っていて歴史を感じさせる。これらは国指定の重要文化財となっている。
穴井戸観音
トレイルは真木大堂の境内の奥から、古代公園と呼ばれる林道へと進んでいく。林や田畑の風景をしばらく進んだ間戸というところに、穴井戸観音がある。石段を上ってゆくと、巨大な岩壁のくぼみの下に木像の小さなお堂が建てられている。周囲は竹や照葉樹が茂っている。お堂の前にはヤシの木が一本生えて、景観のアクセントになっている。
お堂の脇を見ると、
「電気をつけてお入り下さい。出口で消してください」
「岩屋入り口」
という看板がある。スイッチを入れると、お堂の裏の暗闇に明かりがついた。裏は岩屋になっていて、奥に深く続いていた。穴井戸観音はその洞窟の奥に安置されている。洞窟の天井からは湧き水が滴っていて、これが「仁聞の隠れ水」と言われているらしい。仁聞菩薩がこのあたりを修行して歩いていた時に、ここで喉の乾きを潤したという。
朝日観音・夕日観音
少し西に進んで小高い岩山をのぼったところに、朝日観音・夕日観音がある。それぞれ東と西に展望が開けていて、その名のとおり朝日・夕日を眺めるのに相応しいところだ。夕日観音は夕日岩屋とも呼ばれ、かつて僧侶たちの修行場であったという。
無数の礫が表面に露出した岩壁が、くぼんで岩屋をつくっていて、そこに小さな石仏が並んでいる。石仏は風化していて頭部を失ったものもある。それらと同じ並びに転がっている木片は、長い年月によって輪郭を失った木像仏であろうか。
朝日観音側に廻ると、こちらも岩屋になっている。岩屋の下に小さな祠が建てられていて、中には原型を留めない、かつて木像仏であったろうものが安置されていた。
田染荘小崎
夕日観音手前の展望所からは田染荘小崎の田園風景が一望できる。この集落は、中世に宇佐神宮の荘園領だった頃からその農村風景をそのまま残すものとして、国の重要文化的景観に選定されている。
山に囲まれた小さな平地に、緩やかな曲線で区画された田園がいっぱいに広がっている。その中を小川と道路が、これも緩やかな曲線を引く。素朴で長閑な、これが日本の農村の原風景であろう。春先の田は浅緑と枯色が混じった、落ち着いた色合いをしていた。田植え後や稲穂が垂れる秋に眺めれば、また違った、鮮やかで美しい景色を見せてくれるであろう。
ちなみにこの田染荘小崎では現在、「荘園領主制度」という仕組みを設けているようだ。年間単位で一定金額を出資すると荘園領主になる。領主になると、一定量の収穫米を受け取れるほか、田植えや収穫の作業を体験したり、御田植祭や収穫祭など地元の祭事に参加できたりといった特典があるとのことである。出資者という形で歴史ある農村のコミュニティに参加できるというのはなかなか面白い仕組みである。なおふるさと納税の返礼品としても荘園領主の枠があるようである。
小崎集落の田園風景の中を西に進む。近くではシジュウカラやジョウビタキが楽しげにさえずり、少し遠くでウグイスの声が響く。足元には菜の花が鮮やかに映えて、またオオイヌノフグリやアカネスミレがところどころに咲いて彩りを与えている。
国東半島のため池
小川に沿ってトレイルをゆくと、小さなため池に出会う。愛宕ため池という。国東半島にはため池が多い。地形が急峻なことに加えて雨水が浸透しやすい火山性土壌であるこの地は、昔から農業用水の確保が難しかったようである。住民たちは小さなため池をいくつも造り、それらを連携させることで農業を営んできたという。この旅では何度もため池を見ることになる。
話がトレイル上から離れるが、国東市のバス路線図を見ると、国東町横手にある泉福寺の北西あたりに、「平六どん」という変わった名の停留所がある。あたりを流れる田深川にも、例に漏れずため池が複数つくられている。そのひとつが「平六の池」という名で、住民からは平六どん、平六どんの池、と呼ばれているらしい。
地元のとあるお寺の住職である通正知秀氏の著作「小さな旅国東半島物語(海鳥社)」によると、こんないわれがあるそうだ。
今からおよそ650年前、高良の集落に平六という青年がいた。彼は賢く勇敢で、いつも仲間のために行動する村のリーダーだった。
村の悩みは度々起こる水不足だった。この地では農業用水の確保は死活問題である。水が涸れればそれは飢饉を意味した。人々は何度もため池の造成を試みたがその度に堤が崩れた。
ある時、3年間不作が続いた。時期外れの日照りと長雨が原因だった。皆はなすすべを知らず絶望するのみだった。このままでは多くの死者が出る。平六どんはもう一度ため池の造成に挑戦することを主張した。
ため池ができれば皆が救われる。必ず成し遂げなければならない。ため池の完成を祈念する為、誰かが人柱になる必要があった。平六どんは自らが堤に埋められる決意をした。
事実かただの伝承かはわからないが、この地におけるため池の重要性がよく伝わる話である。あるいはもしかすると、このような話は各地に類似のものがあるのかもしれない。土地土地の自然と共に生きてきた人々の歴史の中には、無数のドラマがあったであろう。
クヌギ林とホダ場 (世界農業遺産)
話がトレイルに戻る。
道は次第に西叡山の山域へと入っていく。杉の人工林の中にホダ場を見つける。
ホダ(またはホダ木)とは、椎茸を栽培する原木のことである。玉切りされたクヌギの幹が、杉の木々の足元に整然と並んでいる。ホダ木は長さ1mぐらいであろうか。おそらくワイヤーのようなものが水平に張られていて、それに交互に立てかけられている。
更に進むとクヌギ林に出会う。雑木ではなくクヌギの単一林で、人為的に管理されているもののようだ。原木を育て、そのそばで椎茸を栽培しているのだ。ホダ場の脇に停められた軽トラックの荷台には収穫された椎茸が積まれていて、農家の方が何やら作業している姿がちらほらと見える。
大分県は椎茸の産地として有名だ。国内シェアは全国一位である。特にこの国東半島は、その森林資源を活かした循環的な食物生産システムが評価され、隣の宇佐地域と合わせて「クヌギ林とため池がつなぐ農林水産循環」という名目で世界農業遺産に登録されている。
クヌギは伐採されてホダとして椎茸栽培に利用される。収穫後の廃ホダはやがて土に帰り森の養分となる。クヌギは切り株から萌芽し、約15年でまたホダとして利用できるまでに成長する。このサイクルを繰り返すのである。廃ホダやクヌギの落ち葉の分解物が形成する表土はミネラルや栄養分に富み、また保水力が高い。これが先述したため池と相乗効果を生んで、この地の農業や多様な生物たちの命を支えている。
今まで椎茸を食べる際にその栽培のしくみや風景を想像することはなかった。このトレイルを歩くと、自然に沿って生きる中で生まれた知恵の一部を観察することができる。その奥深さに改めて感心すると共に、自分の命もこうして支えられているのか、と今更ながらに感慨を覚えるのである。
西叡山高山寺
トレイルをさらに西に、奥愛宕社を過ぎて上ってゆくと空木峠池である。天保7年(西暦1836年)の完成だという。立派なため池である。
池を過ぎて北に進路を変える。道は北に構える西叡山から伸びる尾根をゆく。40分ほど歩くと高山寺にたどり着く。T1コースの終着点である。
高山寺は西叡山の八合目付近に位置し、その南側の山を背に三方が開けている。山門の前の展望所から、両子山をはじめ国東半島の山々がよく見渡せる。
かつては国東半島の古寺の中で最大の規模と組織を持ち、畿内の比叡山を凌ぐ勢力があったとも伝えられているそうだ。江戸の初期に火災で焼失して途絶えたが、昭和に入って再興がなされて今に至っているようである。
巨木に囲まれた立派な山門をくぐって階段を上った先に本堂がある。しかしすでに時間は午後3時を廻っていた。計画よりずいぶん遅れている。この日はT2コースの終点である並石ダムのキャンプ場まで、あと15㎞をゆかなくてはならない。山門に一礼して、ぼくはそのまま先を急いだ。
春宵の山道を並石ダムへ
西叡山を北東方向に下る。トレイルは杉林や雑木林の中を進む。ハイカーは稀なのであろう。道は道であると判別できない部分が多く、礫の多い地表の上に杉の枯れ葉や折れた枝が積って歩きにくい。ところどころで倒木が道を塞いでいる。道標も疎らで、気まぐれに出てくる(ように感じる)樹木に巻かれた目印テープを頼りに歩く。
山を下りきって里に出た時にはすでに午後5時近くになっていた。風景は次第に黄昏に変わってゆく。日没すれば景観も史跡も楽しめるはずもない。T2コースの残りは後日また歩くことにして、ぼくはとにかく残りの12㎞の歩行に専念することにした。
春宵の山道をひたすらに歩いた。キャンプ場にたどり着いた頃にはあたりはすっかり暗闇になっていた。
つづく
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