個人の物語と境界、自分と他人の境目とは

『メンタル不調者が「みんな」「いつも」という言葉を多用することに示唆されるように、メンタル不調は「個別の物語を見失うこと」と無関係ではない。』というつぶやきがこの間から引っ掛かっている。

まず、『メンタル不調者が「みんな」「いつも」という言葉を多用することに示唆される』ということなのだが、これは、自分と他人の境界が曖昧になっているという状態のことかなと思った。

自分と他人の境界というものを意識したことがあるだろうか?

私は実は他人との境界が曖昧な方だった。他人に対して、自分の身内と同じように接してしまう。やさしいとも言われたが、こういう人への接し方の線引きの仕方は多分人間関係の経験が増えるにつれて幾重にも層が出来て行き、他人に対しての扱い方というものが出来てくるように思う。

他人と自分の境界が曖昧という概念は、HSP(とても敏感な人、という意味)という概念をこの間知り、その特徴として書かれていて、ふむ、と改めて考えたのだが、自分と他人の境界というものを構成する要素として、『内と外意識』が一つあるのではないかと思う。

内と外の意識が曖昧=他人と自分の境界が曖昧、ということになる。

話が変わるようだが、12星座占いの、星座別パーソナリティというものを読んだことがあるだろうか?かなりポピュラーなので、占いは信じないとか言う人でも、つい自分の星座の特徴とか読んで、違うとかあってる様なとか思ったことがある人が大半だと思う。血液型占いと同じくらい、人とのコミュニケーションにも役に立っている部分があるだろう。

占いがあってるか云々はひとまず置いとくが、蟹座と魚座の特徴に、境界という言葉がある。蟹座は、自分の内と外を厳密に分け、逆に魚座は境界をあいまいにする、あるいは飛び越えるというのだ。

蟹座は、自分の身内、内と認識したものには優しいが、外と認識したものには非常に厳しい、という。

ちなみに私は蟹座なんだが、逆にその内外意識が曖昧な気がしている。人間には関係性というものがある。あの人とはこの位、この人とはその位、親しい、親しくはない…そういう距離感のある関係性を飛び越えてしまうと、はっきり言って精神病の領域に入ってしまうと思う。

親しい人とそうでない人の区別がつかないというのが、(ある種の)精神病患者の特徴だというような文を読んだことがあるのだが、わかる気がする。そういう人に遭遇したこともある。

私にももちろん外の人、関係ない人、親しい人、そういう関係性はあるし、区別できている。

パレット叩きつけの子による激しい拒絶が引き金となって私は精神を病んだが、これも、私はこの子を身内と同じように接していたと思う。ここにパレットを叩きつけられるような要素がある。

身内じゃないんだから、そんな風に接せられても、他人は困るのである。

これは痛すぎる思いをして得た教訓だ。

また、彼女がお母さんに全部言ったと言っていたのも私は自分だったら、それはあり得ないので、「自分のことのように」考えて、パニックになった。

お母さんに言うほどの酷い事をしたのかとパニックになった。パレットチャンが幼すぎるというのもあったとは思うんだがなぁ。

友達になろうとした=身内のように接した、それがダメだったようだ。

まあ、今考えればうざいとかそういうこともわからんでもないけど、人との距離の詰め方に問題があったというか…でも正直、今でもそれは良くわからんぞ。

まあそれは置いといて。

『「みんな」を多用するメンタル不調者』は自分を見失っているのだろうが、これは外の方に意識が向きすぎているのだろう。

他人のことを自分のように考える、ということには二つ種類があり、つまり他人事として自分を扱うか、自分ごととして他人を扱うかである。

このメンタル不調者は、他人事として自分を扱っている方だろう。個別の物語を見失っているという文脈にも合う。

それで、個別の物語を見失うというのがわかるようでわからん・・・。

また明日考えようと思う。




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