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マッドマックスを見ずに死ねるか!

ネットでは、良い意味で「バカ映画」と呼ばれているものがある。「ジョン・ウィック」シリーズや、「ブレット・トレイン」などがそれだろう。

細かい設定は抜きにして楽しめる、ド派手なアクション映画が愛すべき「バカ映画」と呼ばれているんではないだろうか。

私は「マッドマックス 怒りのデスロード」(以下、「マッドマックス」)もいわゆる「バカ映画」だと思っていた。たしかに理屈をすっ飛ばした戦闘シーンや、派手な爆発、これでもかという量の火炎放射は、すごさを通り越して笑ってしまう。
けれども、笑えないほど切実な映画でもあることを今日は話したいと思うんである。

「マッドマックス」を見て、こんなに勇気をもらい、切なさを感じるなんて。いい意味で期待を裏切られたからこそ、「どんじゃかする話を見るほど明るい気持ちじゃないわ」という人にもおすすめの映画だということを知ってほしいんである。

例えば、雨や曇りの日が続いて、何となく体調が悪い時。まぶたが重くてだるい時。そんな時のお供として、「マッドマックス」をぜひおすすめしたい。もちろん大音量、大画面で見るのもかっこいいんだけれども、ひとりでしっとりと見るのも大アリの映画なのだから。

これから先は、「マッドマックス 怒りのデスロード」のみを視聴した個人的な感想になります。シリーズ全作品を見たわけではないので、ご了承ください。またネタバレを含みます。

「マッドマックス」を知っているか?

「マッドマックス」シリーズの最初の作品は1979年に公開されている。
以下は、2015年に公開されたシリーズ第4作目「マッドマックス 怒りのデスロード」のあらすじである。

戦乱により荒廃した世界、元警官マックスと女達は、暴力による支配から自由を求め逃走。追っ手が放つ銃弾の雨と舞い上がる爆炎。逃亡者達の決死の反撃が始まる!

NETFLIX

わずか三行のあらすじだが、「怒りのデスロード」から見た人は、最後までマックスが元警官だというのは知らされない。だいたい、主人公の男の名前がマックスだということも後半までわからないんだから、この時点で面白すぎる。

あらすじの説明は一切なく、「マックス」と「女達」の事情もほとんどわからないまま、砂漠でのカーチェイスが始まる。

圧政から逃げていることはなんとなくわかり、奴隷的な状況に置かれた人たちが脱走しているという情報のみで、前半の1時間は進んでいく。

ただそれだけで1時間見ていられるというのが、「マッドマックス」の本質的な魅力なんだろう。個人的には複雑なプロットと、精緻なストーリー展開に血湧き肉躍る私ではある。
けれども、映画にとっては、重厚なストーリーは必要ではないのかもしれない。むしろ、展開がなくてもシナリオが不明でも、ぐっと惹きつけられるところこそが、映画の本性なのかもしれないと思わせてくれる前半だった。

何もわからないまま、爆走

「怒りのデスロード」が初見の私としては、タイトルからしてマックス=男が主人公だと見当づけて見続ける。

しかし、マックスだろうという男は名前を聞かれても名乗らない。そのほかの登場人物たちも「子産み女」「ミルクマザー」「ウォーボーイ」「輸血袋」と呼ばれていて、役割名しかわからない。中盤までで名前がわかるのは隊長のフュリオサと、首長のイモータン・ジョーくらいだろう。

なぜここまで徹底的に個人名が隠されるのだろうか。これは決して派手なアクションを主軸とした愛すべき「バカ映画」だからではなく、必然の演出なんだと考えられる。

というのも、後半になって、自分の意思でマックス側に寝返ったウォーボーイは、心を通わせた子産み女の一人に、「ニュークス」と本当の名前を呼ばれるようになる。
フュリオサの名前は追い込まれた時こそ連呼され始めるし、フュリオサの絶体絶命の時にこそ、主人公の男は、自分の名前をマックスだと告白する。

こう振り返ると、「怒りのデスロード」において、名前は非常に重要な意味を持っているんだと思えてくる。
「子産み女」「ウォーボーイ」「輸血袋」という奴隷であり、その役割名がそのまま名前として流用されていた脱走者たち。彼らにとって、名乗りは奴隷の集団から脱することを意味し、個人として歩み出すというとてつもなく大きな価値を持つ。

ただ逃走しているだけの前半では、女達はまだ、「今引き返せば首長・イモータン・ジョーも許してくれるかもしれない」という迷いを抱えている。だからこそ、その時点ではまだ「子産み女」「ウォーボーイ」の役割に囚われていて、彼らが名乗ることはない。
したがって、視聴者も、彼らの情報が何もわからないまま、ただ広大な土地を爆走する彼らを傍観するしかなかったんである。
後半からぐっと面白くなるのは、彼らの性質が分かりはじめるからこそなんだろう。

男女差別で気分が悪くなる?

「怒りのデスロード」で強烈なシーンといえば、赤ちゃんの人形を抱き、乳牛のように搾乳され続ける「ミルク・マザー」や、若くて美しいがゆえに子供を産むための性奴隷とされる「子産み女」の存在だろう。

この描写でうっ、と胸焼けがしてしまう人も多いに違いない。私自身そうだった。
老婆の「彼女達(子産み女)は道具じゃない」というセリフをとってみても、女性たちの人権が完全に無視されて、あからさまに搾取され続けていることは明白だ。

そして労働力=戦闘力として登用されているフュリオサの立場も、奴隷であることに変わりない。故郷からさらわれて、途中で母を亡くし、自らの腕を失った姿からは辛く厳しい生活が想像できる。

ただ厳しい状況は、男性として生まれた人物も同様なんである。首長のために戦って死ぬことが幸福として刷り込まれてるウォーボーイは、自爆的な戦いを仕掛けてくる。

首長のイモータン・ジョーと、その側近は贅沢三昧のようだけれども、街には乞食が溢れていて、決して豊かなコミュニティーではない。搾取されつづけ、無力で、無名で、なすすべなく生まれながらにして奴隷である人たちばかりがいる世界なんである。

つまり「子産み女」は「ウォーボーイ」であり、「ミルク・マザー」であり、砦に溢れる乞食あり、「輸血袋」のマックス本人でもある。そうした社会的な弱者の総体こそが、「子産み女」の存在が象徴するものであり、この映画の中では女性性について詳しく言及したいわけではないんだと思った。だからこそ、彼らは男も女も関係なく、銃を持ち、声を上げ立ち上がるのだろう。

この世界には、女だとか男だとかいうよりも前に、貧困と格差と無理解と暴力が溢れかえっている。それをまざまざと突きつけられる設定だ。

そこまで考えると、マッドマックスの世界はそれほど「マッド(狂った)」世界ではないでしょう?だって、私たちの身の回りと、そう変わらないから。その切なさに気づいた時にはもう、マックスたちの自由への逃走を全力で応援していた。

自由はずっと遠くにある?いいえ、すぐそばにある

首長が支配する砦から脱走していたマックス一行だったが、結局、食糧を求めて元の砦に引き返すことになる。

安全で健康な土地を、ユートピアを探し求めるよりも、自分たちで抑圧された国を建て直すことを決意するんである。

辛く苦しい思いをした彼らには、もう戦わずに済むように、どこか遠いところへ逃げおおせてほしいと思いながらも、引き返すという決断に感動しないではいられなかった。

特に、ユートピアで逃亡先だと思っていた故郷が荒廃してしまったことを知ったフュリオサが慟哭するシーンは圧巻。故郷が失われても、唯一の希望が断たれても、生き延びようとする彼女の美しさに胸を打たれた。

そして次の作戦が、今となっては第二の故郷になった砦の、奪還。
まだ若い「子産み女」やその子供にとっての故郷を立て直そうと思ったのではないかと想像すると、なおのことフュリオサの覚悟の強さに憧れる。かっこいい。

首長こそ横暴だったが、砦には水資源があり、食糧がある。だからこそ、首長さえ、違うメンタリティだったら、これほどたくさんの人が傷つくこともなかったはずだ。
マックス一行が帰還し、祝福そのもののように放水されるシーンは流石に感動せずにはいられなかった。

「マッド」な世界に生きる私たち

ウォーボーイたちの戦い方は無鉄砲で、「敵とはいえチェンソーでいきなり切りかかるか?!」とか、色々とツッコミどころ&愛すべき「バカ映画」要素はたくさんある。
けれども、ウォーボーイが特攻隊的なマインドを植え付けられている存在だとするならば?そういう生き方しかできないように強制されてきたならば?
その「マッド」さは、私たちの世界にもあるんではないか。

気を抜いて楽しんでいると、時々ヒヤッとするほどの現代への批評性を突きつけてくるのが「怒りのデスロード」だ。
だからこそ、全編にわたって決して油断できない。そして見終わった時には、私たちの世界も十分「マッド」だと気がついているだろう。

「怒りのデスロード」を見たのは、大好きなアニャ・テイラー・ジョイが最新作の主演だというのがきっかけ。早く映画館で「マッドマックス」の世界を覗きたい気持ちでいっぱいです。
そしてリアルタイムだからこそIMAXで見たい。「フュリオサ」を見に行ったら、また感想を書こうと思います。

最後まで読んでくれてありがとう!




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