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けあらしの中で船の汽笛が聴こえたら

恋って、安直かもしれないけれど、微かに桃色がかっている。ほわほわっとしたまあるい感触がある。それは言うなれば苺大福のようで、頬ずりしては心が緩む。心が微笑む。食べてしまうのがもったいなくて、手のひらの上にちょこんと乗せては、大事そうに眺めて、両手で優しく包み込んでは、心がまたにこりと微笑む。

ひとつの恋が終わる時。それは手のひらの苺大福が消えてしまうことを表す。確かにあったその優しい重みは何処へやら。手のひらでそよぐ、からっぽの空気の冷たさにびっくりしてしまう。

ひとつの恋が終わった次の日。見渡す限りの穏やかな海は、けあらし朧げ。船の汽笛がどこか遠くで曖昧に鳴る。そして、覚悟。不思議と寂しさは、ない。

太陽よりも月に憧れたり、必要以上に悩んだフリをしたり。それと同じで、ロマンス夢見る少女は、実はロマンスをさほど必要としていない。要するにただの無い物ねだりで、いじらしいったらありやしない。

それに気づいてしまった時、彼女は「ああ、またひとつ、大人になってしまったなあ」と思わざるをえなかった。(大人になるって諦観してしまうこと?だとしたら嫌だなあ)

踏ん切りだ、リセットだ、自分の為には、やいのやいのと強い意志を持ち平気同然装っていた少女もまた、見せかけの偶像だったようで。彼女は、日記に溢れた涙の跡をぐるりと線で囲み、△△年◯月◯日と、ご丁寧に日付まで書き込み、更には「恋愛は必要でなくとも、あの時間は私にとって必要だった」とも書いた。出たな、恥ずかしいくらいの浸り癖。どこまでもいじらしいったらありやしない。私がすぐ側で呆れていようと、彼女はお構い無し。ここぞとばかりにドラマチックに酔いしれ、今もこうして言葉を連ねている。(良くも悪くも、彼女はきまって"そう"なのだ)

さて、気がつけば三月になり、春はすぐそこ。
少し大人になったあの子にも、今年の桜は桃色に見えるのだろうか?

『鈴懸』の苺大福、近いうちに買いに行かなくちゃ。今度は豪快に、大きな一口でがぶり、とね!苺大福を口いっぱいに頬張った彼女は、きっと逞しく、美しい。


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