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追憶

これは、母が78歳のとき(平成17年)に書いた文章です。母は、晩年になって短い文章をいくつか書き始め、兄弟親戚友人たちに配っていました。中でも、これは一番長く、そして一番心を込めて書いたものと思います。戦前から戦後にかけて、6、7歳〜二十歳(?)の頃の思い出話です。もし母が "note" のようなものをやっていたら、投稿していただろうと思い、今回母に代わって公開します。一部の人名、地名は伏せました。また、各節の見出しは、わたくしが付けたものです。
(母は、89歳で亡くなりました。)

花のように

生い立ち

四季の自然に恵まれたこの国で、初めて産声を出し出会った親子の愛から始まる物語。無垢な心の下地にくっきり刻み付けてしまった大脳は、古い記憶程永く正確に止まっているといいます。

母に抱かれ、背中に負われ、そこから温かい親と子の絆が生まれる。これが心の故郷です。その心は、何歳頃から記憶にあるのでしょうか。昔から言われます。三つ子の魂百までの言葉。私が気が付いた頃には、両親、兄、弟、妹の家族でした。兄二人そして長女として私が誕生しました。父にとっては、初めての女の子、祖父母からも長男の子として大切にされたことでしょう。

当時は厳しい時代でした。だから長女としての存在感は意識していたのでしょう。私なりの役目が身についてゆきました。母の手伝い、弟や妹の世話。昔の親は苦労が多く、自給自足で、炊事、洗濯、掃除などはすべて井戸水、何をするにもからだを使いました。洗濯は殆ど川でした。幸い祖父の側(そば)が川で、しかも井戸水のようにきれいで、大きい柳の木が川を覆っていました。その下で、私は日課のように洗濯をしたものです。家は百姓で、田んぼは多く、穫り入れ時期になると忙しいので、他人に手伝って貰います。早朝から夕方遅く迄、母は忙しく、食べ物を作ったり、よく働く母でした。父は厳格で、母は大人しい。母は、特に祖父のお気に入りでした。長男の嫁としてよく尽くしたのでしょう。私は深く印象に残っています。だからお母さんってよく働くなあ−−と何時も思い続けてきました。余り感情を見せない母。こんな良い所ばかりなのに他人(ひと)との会話は苦手でした。だから、学校からの家庭訪問、父兄会は、父ばかり。運動会は、家族全員。何故か母は、何時も一歩下がって楚々と、でも誰にも負けない、粘り強い良妻賢母の素養がありました。

幼い日々

冬の夜の寒い頃、
真っ赤になった手で子供たちの縫い物をする姿は、痛々しく、連日、朝は早く暗いうちから目をさまし、夜遅くまで働く母。こうして昔の親は口では何も教えなくても、後ろ姿で無言の感化の機能を自然に備えていたのでしょう。

夏の夜から早朝、
部屋一杯に大きく張った蚊帳の中で、暑い暑いと賑やかで騒々しい声。長女は何をするにも先頭−−ウチワを両手に持って数を数え、順番に、次は誰その次は誰と、交替しながらやっていると、いつの間にやら皆寝ていました。そうして夜が明け、薄明かるい頃、私の耳に、人の足音でしょうか。隙間から顔を出さず外を見ました。「ワア‥」と思いながら明るくなるのを待ち、父に訊きました。「そうや。仕事に行くのや、働いて。大家族、大変」と答えてくれました。それから毎日毎日早朝、夕方と元気な足音がリズムのように聞こえました。

夕食を済まし、映画を観に行く人々、芝居を観に行く人々、道路(みち)一杯の行列になって、一日の疲れを癒す。これが当時の生き甲斐だったのでしょう。皆、真面目で前向きに、そして堅実に生きる。働いて楽しんで、というのが毎日の光景でした。

夏の○○川、
妹は川が大好きでした。また、賢く要領がよい。でも、時に父に叱られている姿を覚えています。そんな妹を私は庇ってあげようと思ったのでしょうが、少し控え目でした。私と妹は、いつも母と一緒で助けたり、助けられたり、ミックスすればと思うほど、子供の頃から仲良し。時には、母と三人、〇〇川へ‥。そこは、大勢の親子の姿。泳いだり、洗濯したり、河原一面色とりどりに干しています。私と妹は洗濯物の番人です。母は乾いた頃に来ました。川の水は清涼で、一息すれば空気は爽快です。筏流しや、渡し舟もありました。素朴な自然美に、大人から子供まで、母のように愛されたオアシスの川。現在(いま)は荒れ果てて見る影もなく、時代(とき)の移りを感じさせる汚れ切った状態(すがた)です。

成長そして戦争

時代の流れと共に、子供心も成長し、兄は中学校卒業後、朝鮮に就職しました。両親は長男と初めて離れる想いに、寂しそうでした。

私は女学生に‥
二年生になった頃でしょう。大東亜戦争へと時代が一変しました。兄は早速京城(朝鮮)から帰って来ました。そして、兵隊検査を受け、甲種合格、中支への派遣が決まりました。両親と私達は、○○○まで行き、憲兵の厳しい目を避ける想いで見送りました。

私は学徒動員として工場で働きました。来る日も来る日も空襲で、空にはB29の飛行雲。防空壕に入ったり出たり、あたりは、電燈の明かりもなく、暗闇の中です。私達は、△△へ疎開し、荷物は▽▽方面に預かってもらったりしました。その頃はもう、男手もありませんでした。幸い家は、百姓でしたので、手作りのパンを焼いたりして、私は、手探りで、弟や妹の食事を作るのが仕事でした。何を食べても美味しい‥と。□□[地元]にも爆弾が落ちました。両親は兄の無事を祈るばかりでした。平和が早く来ることを願いました。

時代は容赦なく過ぎました。心に深く刻み込まれた戦争、二度と起きないようにと、国民の皆様は、平和を願ったのでした。

終戦後、私は女学校に戻りました。兄は早く復員して、帰って来ました。両親は、何事もなく無事帰ったので、安心したのでしょう。笑顔と涙一杯にして、喜び合いました。当時、弟と妹が生まれていました。兄は、縁側に座ると、弟は不思議そうに兄の側を離れず見入っていました。兄は尋ねました、「この子は。」「弟よ。寝ているのは妹。」兄は、子供たちがまだ幼いので驚いた様子でした。一喜一憂、底のない想いに、私は涙が止まりませんでした。

乙女心

私は、学校に行きました。沢山の想いに緊張していた自分。少しでも落ち着こうと独り廊下を歩いていました。すると音楽室からピアノを弾く音の流れが耳に‥誰でしょう‥そうっと顔を見合わせました。「おいで」と救い手が差し向けられる想い。生物の先生でした。恥ずかしいような嬉しい想いで近寄り、「先生、どうしてピアノ」と小声で訊きました。私の大好きなローレライの歌を弾かれ、乙女心が揺れる想いを初めて知りました。数日後、さり気なく職員室の前を通り過ぎよう‥。と、後ろから先生が‥私の手には封筒‥一瞬戸惑いました。それから文通は暫く続き、これが私のファーストラブでした。先生と生徒、何時か噂になり、私は強気でいましたが、誰に話そうと思案の末に母に相談すると「今頃から何言ってるの」と強(きつ)く、たった一言でした。其の後、母の表情は冷たくなり、私は独りで、思い詰める。世間知らずの私に、皆は真剣身がなく、相談にもならない。禁じられた恋は許されないのを知りながら、深く胸に思ったり、思案の後、互いの心と心の思いやりを素直に確かめたい−−けれども私には、呆然とした、愛してる、愛されたいという青春心。先生は、夕焼け小焼けの赤とんぼを弾きながら、何事もなかったかのように、私を慰めてくださったのでした。時は影のように過ぎ思い出だけ。哀歓を残し、風と共に遠く失った愛でした。或る日、何処からとなく、風の便りに、結婚‥と、耳に入りました。ハッピーエンド‥グッバイでした。誰しも一度は経験することでしょう。

翌年三月私は卒業しました。其の後、母の手伝いしたり、和裁、洋裁と習い事を身に付けました。

月日と共にすっかり忘れ去っていた頃、父は突然見合いせよと言う。娘の気持ちも知らず、忘却していた心が蘇る如く思い出させる父。「いや」と言いたいばかりでしたが、返事はせず、素直になれませんでした。するともう翌日、大阪から来客でした。早くせよとばかり、見合いをしました。数日後、会いたいと言う連絡。大阪と□□[地元]、週一度続きました。父は余り気乗りしない様子でした。叔父は見掛けに惚れるな‥苦労するかも、と厳しい表情でした。私は、熱意のある理想の人と思い、お互いの気持ちを確かめようと、妹に助けを借り、両親に隠れて逢いました。父は見合いせよと言いながら、黙って難しい表情です。ノー、イエスは自分たちでと思っていたのでしょうか。このまま両親に祝福されないで‥と思うと、自信と不安に乱れ、いつの間にやら、お互いの愛を確かめきれず消えてゆく、
 奥深く感じながら、
 受け入れることのできない心。
 乱れに乱れ、涙を流して、
 元の姿に戻ろう。
 互いの心と心、離れよう...
と、心の旅でした。

一人旅

年月と共に、知らず知らず様々な体験を積み、失敗を重ねて、強くなります。外気に触れ、考えたり、自分の道は自分でと、他人に迷惑かけないようにと言う気持ちは、青春時代に芽生えたのでした。当時、兄は結婚していました。家族は多く、兄夫婦は、祖父の家で暫く暮らしていました。

そんな或る日、○○○の叔父さんから私に、「わしの友人、お前に手伝ってほしい」と頼まれ、思いもしない北海道行きの話しです。まるで夢のようで、余りの突然に、初めて親と離れる想いや、不安と淋しさ、世間知らずの自分に複雑な想いでした。でもいつかは親元を離れ、運命は自分で切り拓くもの。我慢も勉強と、父の教訓を思う。「他人の飯食ってこい」ご機嫌の悪い時、痛いほど身に沁みていました。これが私の第一歩と決心しました。そして、兄夫婦と妹は愛情一杯で見送ってくださいました。東海道線を行き東京まで、叔父の友人と一緒でした。青春の一人旅‥寂しさ、不安、怖さ の想いを胸に東京に着きました。もう此処まで来れば戻れない、行こう‥と独り言。それから大きい連絡船に乗り、いよいよ本当に一人です。周りに知った人は居ない。頼りは、係りの人だけ。荷物はしっかり離さず、海を眺める。目前に迫って来る北海道。心の中では早く早くと思いながら到着しました。

ホームで大きい旗、そして叫び声「ようこそ、◇◇悦子さん--」私は、無我夢中、嬉し涙が胸を撫で下ろすような感動に、泣いて、泣いて、いつまでも泣いて、泣き崩れました。それから、電車に乗り換え、札幌に着き家族中で歓迎されました。「ようこそ、遠い所迄」私は、不安で不安であったのに、よく此処まで来れたなあ、自分で何が何だか分からないまま、優しいスケールの大きい家族と出会って良かったと涙が溢れました。「どうぞ宜しくお願い致します」これが、初めて出た言葉でした。もう迷う事なく頑張れると、自分に言い聞かせました。それから家族の皆様で優しくされ、休日は町を見物したり、親戚の方達と楽しく賑やかに料理を作ったり、私は無量の喜びを知りました。子供は小さいので大変でしたが、明るく、雪国もいいなあと、すっかり家族の一人として、忙しい日々の暮らしに慣れていました。

沢山の青春時代、純真な想いに、私は、何時までも追憶の夢を見ていたのでしょう。昔懐かしく胸に刻み込まれています。両親より教えられた感謝の心を忘れず、親の存在が私を眩しくさせ、親を意識し、失った物より生かされた大切な心に感じるばかりです。

平成十七年夏
〇〇悦子

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