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仏教の言葉から

前回はキリスト教の教義などについて話しました。
明治から日本は欧米の文化を取り入れキリスト教についても一般にも知識が広がっています。例えばイエスの母の名(=マリア)、生まれた所(=ベツレヘム)、どういうふうに亡くなったのか(=十字架刑)とか、あるいは聖書に出てくるイエスの金言名句も多く知られています。

しかしながら、お釈迦様がどこで生まれ、どこで亡くなったのか知っている人は少ないでしょう(母はマーヤー、ルンビニ園で生まれ、クシナーラで没する)。
これは宗教の性格によるのでしょう。

キリスト教では歴史的真実が強調されます。つまりイエスという個人の死と復活が大切です。他の者に代えることができないわけです。ヨハネの福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、彼を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるのがそのことをよく表していると思います。

仏教はどちらかと言うと個人より真理性に重きを置くように思います。だから、釈迦でなくても、阿彌陀如来や観音様でもいいのです。実際、観音様がいつどこで生まれたか誰も質問しないし、誰も知らない(と思う)。
東南アジアの上座部仏教(いわゆる小乗)は、もう少し釈迦に親しみを感じているかも知れないけれど…。

前置きはこれくらいにして、今回は仏教の名句をいくつか選んでみました。よく知られている言葉から始めます。


天上天下唯我獨尊てんじやうてんげゆいがどくそん
うぬぼれで言ったのではないでしょうね。釈尊のことですから、未来に仏となることを宣言したのかも知れませんが…。パーリ語の経典にこんな話があります。

(…前略…)
(コーサラ国王パセーナディ)「世尊よ、今日わたしは、夫人のマリッカーとともに、高楼に登っていた時、ふと、彼女に、この世に自分自身よりもさらにいとしいものがあろうか、と問うてみた。彼女は、自分自身よりも愛しいものは考えられぬ、と答えた。そして、わたしはどうかと問いかえしたが、わたしにも、自分自身より愛しいものは考えることができなかった。そこで、わたしにも、自分自身よりも愛しいと思われるものはない、と答えるのほかはなかったのであるが、このことはいかがであろうか。」
世尊は、聞いて深く首肯うなずき、さて(=詩)をもって、このように教え説かれた。
「人の思惟おもい何処いずこへも行くことができる。
されど、何処へ行こうとも、
人は己よりも愛しきものを見いだすことを得ない。
それと同じように、
すべて他の人々にも自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知るものは、
他のものを害してはならぬ。」

相応部経三、八 末利(増谷文雄訳)


色即是空空即是色…
般若心経の一節ですね。しきというのは五蘊ごうん(色受想行識)の一つで、形あるもの・肉体・物質を表します。お経ではこの後、残りの四種(心、精神面)も同様だと述べています(受想行識亦復如是)。いわゆる、「無我」あるいは「空」の思想です。
「空」は「くう」と読みます。「そら」ではないのですけれど、ちょっと石川啄木の歌を見てみましょう。

不来方こずかたのお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

石川啄木 「一握の砂」

この時啄木が見た空は、のびのびとした自由な心でいっぱいであったでしょう。妨げなくあらゆる可能性を宿す「そら」、それは「くう」すなわち何ものにもなり得る自由そのものにも思えます。
(ただ、短歌鑑賞の上から言うと、この歌の前に
 教室の窓よりげて ただ一人 かの城址しろあとに寝に行きしかな
という歌があるので、啄木自身は必ずしも開放的な気分でなく、何か後ろめたさも少しあったと解釈できるかも知れません。)

それはともかく、「空」とは、実践的には、何ものにも執着せず自由であるということです。蜂が蜜を集めて去るように、何事も無為自然に行われる。

花びらと色と香を
そこなわず
ただ密味あじのみをたずさえて
かの蜂のとび去るごとく
人々の住む村落むら
かく牟尼ひじりは歩めかし

法句経(ダンマパダ)(友松園諦訳)

金剛般若経ではこう言います。

應無所住而生其心にしやうごしん
(まさに住する所なくしてその心を生ず。)
(住する=とどまる、執着する
 その心を生ず=自然にその場に相応しい心・思いが生じる)

金剛般若経 鳩摩羅什訳

ところで、しき(受想行識)はくうである、しかしまた、空は色であるとはどういうことでしょう。

舎利子しゃりしみよ空即是色花ざかり
(舎利子=シャーリプトラ、釈迦の弟子)

小笠原長生(?)

ここには世界の見方の転換があると思います。空性、つまり一切は縁起によって生じたもので実体がないという頭で理解する見方、から再びこの娑婆世界(現実)に戻って来るのです。執心を去り真に自由な心ができ、自主自律の行為ができるのです。宗教的な世界の転換です。
前回も述べましたが、そうした自主自律の行為は…
「…例えば、善をなすのも無為自然に行われる。誰かに命令されてやるでもない、損得勘定でもない、義務でもない、良心に動かされてという窮屈さもない。」
蜂のように花びらも香りも害せず、密だけを集めて飛び去るのです。


色は匂へど散りぬるを (華やかな花もいつか枯れ)
我が世誰ぞ常ならむ 
 (わたしもこの世も変わっていく)
有為うゐの奥山今日超えて 
(そういう迷いの世を超え去り)
浅き夢見じひもせず
 (今は浮ついた夢も見ないし迷酔もない)
いろは歌は無常(=詩)を和訳したものと思っていいでしょう。ここに出て来た「有為」とは因縁によって生じた諸現象のこと、つまり有為の奥山とは迷いの娑婆世界のこと。

【無常偈】
諸行無常 (すべての現象は無常であり)
是生滅法 (生滅変化する)
生滅滅已 (その生滅がわった時)
寂滅じゃくめつ爲樂いらく (それら現象の寂滅[=涅槃]が楽となる)

大般涅槃経

釈尊の過去世である雪山せっせん童子が羅刹らせつ鬼に化けた帝釈天たいしゃくてんからこの無常偈を教えてもらうという説話が経典にあります。法隆寺の玉虫の厨子の台座にも描かれている話です(施身聞偈図)。

迷える人々は昔からあります。悩みや悲しみが人間を作っていきます。

ほとけはつねにいませども
うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかに夢に見えたまふ

梁塵秘抄(平安時代後期の流行歌)から

靜かなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞ悲しき

式子内親王(新古今和歌集)

としどしにわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり

岡本かの子

無常を経験し観察して、自己を見つめ事態を静かに眺めるよう心がけるところに世界は開けるのでしょう。

さて長くなりましたので、この辺で切り上げましょう。興味の有る方はWebで検索してもいいでしょう。noteにもわたしより詳しい方がたくさんいると思います。

◇ ◇ ◇
仏教の基礎を学ぶにはどんな書物を読むべきか。
わたしはこの書を推薦します。少なくともカルトにはまるのを防いでくれるでしょう😎。
わたしが購入した第一刷は1971年発行なのでもう販売されていないと思ったのですが、新しい版で出ていますね。
わたしが仏教について初めて読んだ書です。当時はまだ若く、知識として受け入れただけです。本当に仏教の心に触れたのはそれから十年ぐらい後になります。

▶更新
 2023-7-3 タイトル変更しました。
 2023-9-8 岡本かの子の歌を追加。
 2023-9-27 タイトル変更。画像変更 AARN GIRI 撮影 unsplash.comより。


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