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初めて本を興奮しながら読んだカナダでの。

ずっと野球ばかりやっていた。
小さな頃から、野球にしか興味がなかった。
島根の小さな町の、住んでいた団地の脇には、
小さなちいさな公園があって、
ゴムボールとバットで、
同じ団地の子たちと休みには、
誰からともなく、約束もせず、
気付いたら野球をしていた。

おじいちゃん家にも、野球道具が雑に転がっていたし、その団地の我が家にも、玄関にはすぐに手にとれるような場所に、バットや軟球、硬球、グローブがいくつも転がっていた。

少年野球が始まった4年生から、引退する6年生の夏まで、学校には行かなかったとは言え、
午後の練習には参加していたし、TVで見るのも野球ばかりだった。買ってもらったゲームのソフトも野球ゲームばかりだったし、野球盤はもとより、カードゲームを買って貰っては、ひとりサイコロを転がし、試合や成績をノートにつけていた。ピッチャーだったのもあって、ずっとゴミ捨て場の壁で投球練習をしていた。

昼夜逆転してからも、それから中学生になって、相変わらず不適応で、学校に行かず、家で引きこもっていても、小さな部屋でボールやバットを握って遊んでいた。

見かねた家族が、中学二年生の夏、1か月だけ、僕をカナダのバンクーバーにホームステイに出した。
実際のところ、もう30年も前の話だから、
覚えていることは少ないなかで。

初めて飛行機に乗った。僕の席はいちばん後ろだった。その頃にはまだ飛行機のいちばん奥で煙草を吸えるスペースがあった。僕たちをアテンドしてくれた、すまこさんと言う、背の低い、黒いミリタリージャケットを羽織った女性が、ベビースモーカーで、ずっとそこにいて、
坊主頭の僕の頭を撫でていた。確かに切りたての坊主頭を撫でるのは気持ちが良い。

カナダで覚えているのは、ホームステイ先のお父さんが、大学生だったこと。30を過ぎて、家族がいても、大学に通えるのか、とその選択肢をびっくりしながら、面白く思った。

ホームステイ先で何度もフックという映画を観たけれど、英語はからきしな僕にはよく分からなかった。

おうちの庭でバーベキューをして、食べたハンバーガーは本当に美味しかったし、ふらりと連れて行かれるファーストフードのコーラのLサイズが大き過ぎて、毎回飲み切るのに苦労した。

おかあさんはずっとワインを飲んでいた。
ファーストフードに連れて行かれたあとは、
おとうさんがゲームセンターでやる、
ピンボールやビリヤードを、ただ眺めていた。

ある日、ふとどこからか外出先から、ホームステイ先に歩いて帰る時、森のなかの大きな道路、だけれど閑散としたバス停のベンチに座っている、同い年くらいのゴスの格好で、つまり黒尽くめでヘッドフォンを聴いている少年が僕を見ていた。睨み合いというよりは、ただお互いを眺めていたけれど、いまなら彼が何を聴いていたか、気になる。

割とホームステイ先のおかあさんが気難しいひとで、僕はたまにすまこさんに相談していたんだと思う。
すまこさんとは本当によく話した。

ホームステイ先の、小さな男の子は出会った時にはものすごい勢いで、僕に話しかけてくるけれど、僕はといえば、モアスローリー、プリーズと返すしかなく、だんだんと会話もなくなっていく。

滞在も終わりに近づいた日、すまこさんが、
このひとめちゃくちゃかっこいいから、読んでみれば?と本を、日本語の本を渡された。
落合信彦という作家の、内容は忘れたけれど、
単行本だった。
むさぼり読んだ。

野球ばかり考えていたし、だから図書館や、子供の頃に例えば絵本があるような環境ではなかったので、まるまる一冊、本を読むのは、2、3回目だった。

興奮して読んで、返そうとしたら、もう一冊、同じく落合信彦の本と一緒に、君にあげるよ、と言われた。かっこいい大人になってね、と言われた気がする。

いまは落合信彦を読むことはないし、
当時、流行っていたらしいこと、
陰謀説の先がけくらいにしか、
それからものすごくマッチョで、
たぶんいまはもう読めないだろうけれど、
その2冊は、実家があれば
(家族とはその後、疎遠になったので、実家がまだあるかも知らない)、
段ボールの中にでもあるはず。

タイトルも忘れたその2冊は、だけれど、
日本に帰ってから、読書をはじめるきっかけになった。
そこから、宗田理やスティーブン・キングやアルビン・トフラーや、とにかく流行っていた本を読む習慣ができた。
落合信彦をかたっぱしから読んで以後。

乗り換えで泊まったホテルが、シアトルにあって、ホテルから見える夜の町に出てみたい、とすまこさんに言ったら、危ないから、とあっさり断られた。
1992年のシアトルといえば、あとあと聴くことになるグランジの正に熱かった時だ。

島根に帰ってから、カナダに一緒に行った30数人で集まり、すまこさんに手紙を書こうという話になる。
何を書いたのかは覚えていない。
ありきたりなことしか書いていないと思う。

返事は来なかった。
みんな、それにがっかりしていたけれど、
それが僕だけか、他にも知っていたひとがいたのかは分からないけど、
彼女が、帰国後、脳の検査で入院するのを、
僕は聞いていた。

最後の別れの時、どう別れたかも、
帰りの飛行機で、伸びた坊主頭を触られたかも、もう記憶にはない。

その30数名で帰国後、一度だけ集まって、
遊んだはずで、でも僕はすぐにその場から帰った。
みんなでカラオケに行くのを車の中で見ていて、父親が、行かなくていいのか?と聞いた。
うん、ただ、帰りに本屋さんに寄って、とだけ言った。

ずっと書くひとになりたかった。
たまたま高校を辞めて、上京してきて、
大学の学部を選んだのも、文章を書くコースがあるところだったし、
おじからもらったワープロに、上京後から、時間だけはあったから、文章を綴っていた。

いまは介助の仕事が楽しくて仕方ないし、
ほかにも音楽や(DJをやるのも含めて)、
映画を観るなど、好きなことはたくさん増えた。

結果、職業作家にはなれなかったし、
それはそれでいいと思っている。
こうして、書くことが、好きだなぁと思う。
本を読むことが好きだなぁと思う。

あれからずいぶんたくさんの本を読んだし、
これからもそうだろう。

そのきっかけをくれたすまこさんの話でした。
お読みいただき、ありがとうございました。

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