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自分を恥ずかしいと思ったあの時の私へ―どんぐりを添えて―

道にどんぐりが落ちていた。


「こんな時期に....」と思ったけれど、やはりどんぐりは丸くて茶色い暖かな色をしていて小さくて可愛い。そんなことを思うと同時に、恥ずかしい 苦しい けれども温かい思い出があることを思い出した。

小学一年生の秋、季節のものを集めるという「いかにも」な行事があり、その際にクラス中の同級生らがどんぐりを集め出した時があった。


「いかにも」な行事に冷めた感情しか持てなかった私だが、たかが7歳されど7歳。周囲のどんぐり熱に置いていかれる恐怖を覚え、どんぐり集めに精を出すことにした。

どんぐり一つを取ってみても種類は様々あったが、少し細長い紡錘型にフタのような頭が付いたどんぐりがダントツに人気であり、それを数多く持っている子が、なんとなく権威を持つようになった。


小学生なんかそんなものだ。
しかし彼らの世界はそれ一色であらゆるどうしようもない社会の秩序や雰囲気を覚えてしまう。
かわいく見えても、私たちは必死にそんな荒波を越えてきた。


その波に乗り遅れたかのように、私は必死にどんぐりを集めたが、どうしてもあの少し細長い紡錘型のどんぐりだけ見つからなかった。

ただ丸いだけのどんぐり、
欠けたどんぐり、
フタの付いてないどんぐり、
腐りかけたどんぐり、
中から土がやたらと出てくるどんぐりetc....

一番冷めていた私だが、気づいた頃には一番どんぐり熱が上がっていた。


終いには、両親に頼んで車を出してもらい少し遠い森の公園へとどんぐりを探しに行った。

私は自分が、あの少し細長い紡錘型のどんぐりを持っていないことを非常に恥じていた。テストも授業態度もそんなに悪くない自分が、あの少し細長い紡錘型のどんぐりを持っておらず、クラスから取り残される事が許せなくて、それでいて情けなかった。

しかし、森の公園に着いても落ちているのは、私が求めているどんぐりではなかった。

穴があいてるどんぐりや、芋虫にかじられたようなどんぐりしかなかった。

それでいて、もっと私を悲しくさせたのが両親の姿だった。


私のために車まで出してくれた2人は、
私の「学習に対する必死な態度」に協力してくれたのだが2人は、あの少し細長い紡錘型のどんぐりを私が求めていることを知らずに、必死に「ダサいどんぐり」を探してくれたのだった。


ほら、この丸いの!
これ、穴があいてるけど綺麗な色!
松ぼっくりとかどう?


笑顔で「ダサいどんぐり」や「どんぐり以外のもの」を提供してくれる両親に申し訳なくて、私は笑顔でありがとう、と感謝したが、内心泣いていた。

「あなた方が生んだ子どもは、あの少し細長い紡錘型のどんぐりを持ってないダサい子なんだ」


そんなことを両親に知られるのが恥ずかしくて、申し訳なくて、仕方なく私はダサいどんぐりを両親と100個拾った。そして学校の誰も見ないロッカーに袋ごと隠した。

しばらくしてどんぐりブームが去った後、
ふと道具箱を開けると、一番奥に、あの少し細長い紡錘型のどんぐりが入っているのを見つけた。


何故入っていたかわからなかったけれど、私は「普通」が手に入った安堵を少しばかり感じた。
一方で、車を運転する父とどんぐりを座って探す母の後ろ姿を思い出して、「ダサいままでいい」と思った。

この時あたりから、私は自分がたかがどんぐり如きでも「普通」に入れないこと、「普通」以外にも何かあること、そして「普通」からはみ出した世界の狭さと苦しさを知った。


そうやって人は悲しみと愛しさを覚えていくのかもしれない。


どんぐり一つで私の思考は遠い昔に遡る。

どんぐり....名前からしてこんなほのぼのしたものが私に教えたことは計り知れない。

※別ブログにて掲載していたものを加筆修正したものです。

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