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まっすぐになってしまった君へ【#カバーニャ要塞の野良犬と表参道のセレブ犬】

最近、すごく遠く感じる。

あんなに近くにいたのに、いつの間にか健やかに幸せになっていて、いくつもの冠を被り、身勝手だけどとても寂しくなった。

教室の後ろの隅っこで新聞紙丸めてゴルフしたり、失恋したら真夜中の公園を裸で走ったり、敗者復活戦でのし上がりはぁはぁしながら会場まで走ってたじゃないか。


こんな気持ちを、オードリーの若林正恭さんに抱いています。


私は学生時代の同級生とかではなく、彼がコラム等で綴っていたエピソードを集めて今、ここに記している。どうしてか、若林さんの「物悲しいエピソード」が中学の頃から頭にこびりついて離れない。

「幸せ恐怖症」みたいな部分に共感したからだろうか?


悔しくてやり切れない時は、2008年M-1決勝戦で、若林さんが最後「ありがとうございました~」と頭を下げる0.1秒の瞬間の顔を見ることにしている。「全てやってやった」という眩い程の安堵感と、この世(と春日さん)に対するささやかな憤怒が伝わってくる。

我ながらすごく変態だと重々承知している。けれど、なんだか「まっすぐに幸せになれない」感じに、異常に親近感を抱いてしまう。

この時、彼らは準優勝だった。


実は「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読んでいない。読めないのだ。

題名を見た瞬間に、本当に申し訳ないけれど、遠い海外へ足を運ぶ若林さんに、一抹の距離感を抱いてしまったからだ。

出身地を「東京」と記さずに「入船」と恥ずかしそうに、でも誇らしそうに言っていたあなたが。地球の裏側へ。しかも陽気なキューバへ。

私の中でナナメだった若林さんが、まっすぐになりだしている。

テレビをつければいつも一番良いところに座っている。YouTubeを開けばローカル番組でコンビ名のつくテレビ番組が流れる。


誰かが、クリープハイプ・尾崎世界観に「幸せになってしまった君へ」という文章を送っていた。そんな題名、アーティストだけに使用することが許された素敵でエモいものだと思っていたけれど、泥臭く生きている芸人のあなたにも泣きながら投げかけたい。


でもちょっと待って。
昨日、電車で「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」の広告を見つけた。端っこに小さく掲載された若林さんの笑みを目にした瞬間「あれ、この人、やっぱりなにか企んでるな?」と感じた。

だってキューバの素晴らしさを語るだけなら、題名は「カバーニャ要塞の野良犬」だけでいいはずだ。あえて「表参道のセレブ犬」と付けて比較しているところに、日本の現代社会を、鋭く、彼らしく、ディスっていることが予想された。

きっと、あなたは、本書でもナナメなはずだ。
絶対、そうに違いない。


移りゆく日々の中、無駄に真っ直ぐになろうともがいていたのは私の方だったかもしれない。
自分が持つ「自意識過剰」や「自己肯定感の低さ」や「普通になれない切なさ」や「生きづらさ」や「偏愛」…上げたらキリのないこの傷的感情を、もっと誇っていいはずだと教えてくれたのは若林さんではなかったか!

私はこの本を、読まなきゃいけない。


若林さんは以前、「自意識過剰で、スタバで『フラペチーノ、グランデサイズ』と言えない」と言っていた。
あぁ、この人こそ代弁者だ、と感嘆した。
(驚くなかれ、この世には自意識過剰でスタバに入れない人が居るのだ!)

でも最近は「歳を取って悩む体力が無くなった」と言っていた。「僕と同じように悩む若者よ、年取れば少し軽くなるよ」とも。

「悩んで傷付いた分だけいいことある!」と言わない平凡さが、身に染みる。若林さんの言う通り、私も恥ずかしげも無く「グランデ」と言える年齢に差し掛かり出した。「ほんとにその通り」と思った。

ずっと前からの話だが、最善物を選択したり、執着し続けたり、「まっすぐ生きよう」と大きな圧力に抵抗するのに疲れた。だから体力の持つ範囲で、つつましく、自分らしい幸せを手に入れられるようになってしまった。

肩の荷が降りる。

ちょっぴり、幸せが良いものと教えてくれてありがとうございます。
いつも、幸せな人を恨んでいた若林さんから、まさかそんなことを教わるとは。

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