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「肯定」は案外すごく難しい

「肯定」という言葉が好きだ。
いつか、小説で「肯定」という言葉のもつやさしさが身に染みてから、この世のあらゆる悪も醜さも弱さも「肯定」していこうといき込んだ。

でも、案外「肯定」は難しい。

こうしている今も、昼寝をしようとしている自分を肯定できないし、土曜日を謳歌する自分をどこかで「ダメだよ!」と否定している。
さらには、今の自分の考え方も、生き方も、否定している。「もっと良くしないと」「上を目指さないと!」と焦っているのだ。

いつも「否定」している。
実は「肯定」よりも「否定」の方が簡単なのだと思う。肯定するには、自らの弱い部分や笑えない部分を受け入れる強さと覚悟が必要になる。しかし否定すれば、そんな部分をいつまでも非難し続けるだけにとどまる。否定しておけば、なんだか「頑張っている感」がある。そしてとってもだ。ただし、それは「逃げ」なような気がしている。

生まれてこの方、どうもずっと、自己肯定感が低い。それはきっと否定している方が楽だし、他人に「思いあがってんじゃねーよ」と言われない(と錯覚している)だろうし、自分を否定していれば「頑張っている」ように思えているからだろう。

わたしの場合は、自己否定することの中にメリットを見出していたようだ。

「認める」とか「肯定する」というのは、優しい言葉に見えて実は至難の業だ。頑張れない自分を受け入れることであり、できない自分を「これが私の限界なのです」と証することなのだから。やだやだ。

でもちょっと考え方を変えたい。
否定する力もあれば、肯定する力も蓄えているはずなのだ。人ひとりの中には、片方の力だけが偏って入っていることはないのだ。「わたし頑張ってないぞ、こら!」と思う日があれば、「今日は頑張れない日だよね」と思う日があってもよい気がしている。


昔、ペンギン好きな友達が「肯定ペンギン」というアカウント名でSNSをやっているのを教えてくれて、片頬だけ上がったのを思い出している。




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