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五番札所 地蔵寺 1

目次

 大日寺の本尊を斬ったジョンは直ちに昏倒した。
 極楽寺を破戒した直後に、それを操縦して金泉寺と大日寺を破戒したのである。常人ならば過労死しても不思議では無かった。
 その後、ジョンは村人の手で安全な家屋へ運ばれて、手厚い看護を受けた。ジョンはそれから一日、目を覚まさなかった。
 そして一人、心の内で懊悩していたのである。


「うおおおおおおおおおおお!」
 暗闇でジョンは一人、叫び声を上げる。その叫びを聞く者はいない。そこは彼の心にある世界なのだ。
 虚無! この世界でジョンが見る者も無く、聞くものも無く、触れるものも無く、味わうものも無く、嗅げるものもない! 自分が直立しているのも定かではないまま、ジョンは苦しみ悶えていた。何一つ、感覚器に入力されることのない虚無の中で彼を苦しめる者の正体は何であろう?
「うがああああああああああ!」
 それは過去であり未来だった。破壊僧として破戒活動を行った過去、そして未来! ジョンは四国に上陸して四つの寺を破戒した。残る寺はあと八十四、彼が心と体を砕き、全身全霊をかけて勝利したあの戦いも、わずか全体の四パーセントに過ぎないのだ。こんなことがいつまで続くのだろう。
 この虚無空間には何もなかったが、唯一存在するものがあった。時間だ。約三十年間近くに及ぶこれまでの過去と、残り八十四体の機動寺院が存在する未来との狭間に、ジョンは押しつぶされようとしていた。
「誰か助けてくれ!」
 そのとき虚無の中にぼんやりと現れるものがあった。まさか本当に救いの手が差し伸べられたというのだろうか? ジョンは現れたものに集中する。そして愕然とした。それはジョンが破戒した寺院の本尊であった。
 霊山寺の釈迦如来。
 極楽寺の阿弥陀如来。
 金泉寺の釈迦如来。
 大日寺の大日如来。
 夢の中で仏が出現するのは本来、吉夢であり彼らのもたらす啓示は幸福をもたらすものである。だがジョンにしてみれば、殺した相手が化けて出てきたことに等しい。ジョンは思わず逃げようとするが、虚無の世界に逃げ場は存在しなかった。
「怖がらなくてもいい、ジョン」
 霊山寺の釈迦如来が言った。いや、言葉ではない。釈迦如来の気持ちが、念となってジョンに受信されたという方が正しい。
「私たちは感謝しているのだ」
 極楽寺の阿弥陀如来が言う。
「これで罪もない人々を殺したりせずに済む」
 金泉寺の釈迦如来が言う。
「君はとてもよく頑張っているよ」
 大日寺の大日如来が言う。
「ゆっくり休みなさい」
「手の火傷は大丈夫か」
「体には気を付けるんだ」
「美味しいものを食べよう」
「食べたかったら肉や魚を食べてもいいんだよ。大事なのは命を無駄にしないことだ」
「風呂に入って温まった方がいい」
「あまり無理をするな」
「苦しい時は私たちを頼りなさい」
「自分のことをまず考えなさい。自分のことばかり考えちゃ駄目だという奴に限って自分のことしか考えてないのだから」
「苦しみを我慢することは無意味だよ。苦しみを取り除く努力をするべきだ」
「猫を撫でなさい。あれは癒される。君に遣わしてやろう」
「やめろ!」
 仏たちの放つ暴力的なまでの優しさに、ジョンは思わず屈服しかける。仏の強力な慈悲は、もはや兵器と言っても過言ではなかった。
「そんなに優しくしないでくれ! 俺にそんな資格は無い! 戦争で俺はたくさんの人を殺してしまった! 敵でなく、民間人……女、子供まで巻き込んでしまった。俺をかばって仲間が大勢死んだ! みんないい奴だった。俺よりも立派でいい奴だった……なのに俺だけが生き残ってしまった。あんたがたを憎んだことさえある! いや、今も心のどこかでは憎んでいるんだ! 仏教さえなかったら、俺の人生は田畑を耕すのんびりしたものだったに違いないとな! だがその一方で俺は仏教による救いを求めているし、破壊僧の力でしか人々を救えない。その矛盾が苦しい! とても苦しいんだ!」
 本尊が消えていく。
「ま、待ってくれ! 行かないでくれ……いや、行ってしまえ! どこへでも行くがいい!」
 うおおおおおおおお!
 ジョンは虚無の中で頭を抱えて絶叫した。


 気が付くとジョンはどこかの家の中にいた。窓から心地よい日差しが差し込んでいた。
「気が付いたか、ジョン」
 枕元に置かれた金剛杖が言った。
「雨が上がったか」
「何を言う。機動寺院と戦ったのは昨日のことだ。お前は大日寺の本尊を破戒した直後に気を失ったんだよ」
 ジョンは布団の中で仰向けから横になる。
「大師」
「何だ」
「俺は自信が無くなってきたよ。俺は今回の戦いで、人生の全てを出し尽くした気がする。いや、文字通りそうなのだろう。しかしこれが、あと八十四も続くとなると、同じように戦えるとは思えなくてな」
「一気に全部、と考えるからだ。仮にあと一寺だったらどうする?」
「行く! あと三寺くらいなら戦えるぞ!」
「そうだ、そんな風に考えろ。何もあと三日で四国を回れとは言っていないんだ」
「だが」ジョンの脳裏に、寺からロボットアーム『木魚』でポイ捨てされる人々が浮かぶ。「犠牲になる人々は増える」
「我々にも限界はある。全てを救うことは出来ない。機械の体を持つ私と違って、君は食べて飲んで、寝なければならない」
 金剛杖に言われると、ジョンは猛烈な空腹と渇きを感じた。すると襖があいて、その奥から紅が現れた。
「ジョン、気が付いたんだね!」
 目覚めたジョンを見て、紅がパッと明るくなった。
「お腹空いてないかい?」
「ああ、もう腹が減ってしょうがない。すまんが、食事を持ってきてくれるか」
「分かった。ああ、肉や魚はダメなんだっけ?」
「いや、肉でも魚でも、何でも持ってきてくれ。許可はちゃんと取ったから」
「許可?」
「ああ、こっちの話だ。何でもいい、頼む」
 紅が襖を閉めて、バタバタと駆けていく。
「許可とは何だ?」
 金剛杖が訊ねる。ジョンは寝ている間に見た夢のことを話した。
「俺はてっきり仕返しされるかと思ったぜ」
「お前の破戒行動は道理にのっとったものだ。そんなことはしやせん」
「でも本尊をぶっ叩いて、撃って、斬ったんだぜ」
「あれはただのモノに過ぎない。本尊はほれ、この通りここにある」
 金剛杖がレーザーポインターで枕元にある納経帳を指した。
「本尊は梵字と言う形で納経帳へ移った。お前が打ち砕いた釈迦如来も、阿弥陀如来も全てここにある。お前と共にな」
「ふむ」
 ジョンは納経帳を手に取ってパラパラと捲った。ほとんど白紙のそれは、最初の四ページだけ、竜ののたうつ様な書体で文字のような者が書かれている。正直、ジョンは梵字が苦手だったし、さらにこれほど達筆では判読が出来なかった。
「まさか毎晩、夢に出るんじゃないだろうな」
「縁起が良くていいことじゃ」
「冗談じゃない、過労死しちまうよ」
「だがお前、そうでなくとも毎晩、うなされているだろう」
 金剛杖に言われて、ジョンは押し黙った。
「毎夜毎夜、いったいどんな夢を見ておるんだ」
 ジョンが口を開きかけた刹那、紅がたらいを抱えて部屋に入って来た。
「ジョン! たらいうどんだよ、ほら食べな!」
 たらいうどんはその名の通り、たらいに入ったうどんである。これを椀に入ったうどんつゆにつけて食べるのだ。うどんつゆには薬味としてネギと天かすが大量に入っている。
 ジョンはたらいの中で白魚のごとく揺れるうどんを箸でつまみ上げ、つゆに浸して「すぞぞぞぞぞ」啜り上げた。
 旨い。
 よく出汁の取れた醤油風味のつゆと、うどんが調和している。噛むのも惜しいとばかりに、ついつい飲み込んでしまう。のど越しもいい。
 カリカリと天かすが歯の中で弾けた。それがうどんと、つゆと、調和してやはり旨い。
 旨い、旨い、旨い。
 たらいに山盛りにあったはずのうどんが、あっという間に姿を消した。
「ジョン! 押し寿司だよ、ほら食べな!」
 紅は次にアジの押し寿司を盆一杯に載せたものを運んできた。握りこぶし大の米の上に、酢に長時間漬けたアジがまるまる一匹、乗っかっている。
 その豪快な料理を、ジョンは頭から被り付いた。予想していた骨の抵抗は無い。長時間、酢につけられた魚は骨まで柔らかくなる。
 ひんやりとした感触、酸味、それから白身魚特有の淡白な味わいが広がる。生臭さは感じられず、柑橘類の香りがした。
 疲れたジョンの体は酸味とタンパク質を欲していた。もどかしく寿司を噛んで、嚥下する。
「ジョン! おでんぶだよ、ほら食べな!」
 紅は次に豆、ごぼう、ニンジンなどの根菜類の煮込みを鍋ごと持ってきた。ジョンは鍋からおでんぶを、お玉ですくって椀に盛り、箸でかきこむようにして食べた。豆とニンジンが甘みを発して口の中でつぶれ、ゴボウがゴリゴリと口の中で音を立てる。醤油ベースのだしが、甘さと塩辛さの橋渡しをしていた。あっという間に鍋が空っぽになる。
「ジョン! お茶だよ、ほら飲みな!」
 ジョンは紅から受け取った薬缶の口に、自らの口を付けて一気に飲み干す。
 満腹。
 大きく腹を膨らませたジョンは、思わず布団に倒れ込む。
「ちょっと食べ過ぎじゃないかい?」
 紅が今更ながら心配した。
「そうかもしれんな」
 ジョンはそう言ったが、体に不快感は感じなかった。今の自分には、これだけの食事が必要だったという謎の確信がある。
 それでも動くは億劫だったので「俺はもうちょっと休むよ」と布団を被った。
「構わないさ、無理せんといてくれ」
 紅が薬缶を下げて部屋を辞した。
 ジョンは目を閉じる。やっと一息つけるような気がした。


 ジョンが次にうなされながら目覚めると、空はもう夕方だった。疲れはまだしつこく残っていたが、エネルギーの充填された体は立てない程では無かった。
「少し散歩しようか、大師」
「ああ」
 そうしてジョンが襖を開けると、目の前に真っ白な子猫がちょこんと座っていた。
 仏からのデリバリーだ!
 子猫は「にゃあ」と媚を売るように鳴いて畳の上に転がり、ジョンへ向かって腹を見せた。
 仏からのデリバリーならば仕方がない。ジョンは座って子猫を抱き上げ、頭を撫でた。
「ああああああ!」
 金剛杖が悶絶するように声を上げ、ピカピカと光る。
「私も! 私もナデナデしたい! どうして私は杖に手足を付けなかったのだ!」
「むう」
 ジョンは金剛杖の様子を見て不憫に思った。すると子猫はジョンの手をすり抜けて、金剛杖に歩み寄ると、その体をスリスリと擦りつけた。
「ああ! 猫ちゃんカワイイ、カワイイ! 仏よ、感謝いたします!」
「このくらいでいいだろ」
 金剛杖を猫から引き剥がした。
「ああん」と、金剛杖は名残惜しい声を上げる。
「ほら、お前も親の元へ行け。俺はこれから大師と散歩するんだから」
 ジョンがそう言うと、子猫は聞き分けよく去って、玄関の隙間から外へ出て行った。やはり仏の遣わした仏猫なのだろうか? 胸の辺りをさする。そこには本尊の封印された納経帳があった。
 同行二人が最終的に何人に増えるんだか。悪いことは絶対できないな。
 そう思いつつ玄関の敷居をまたぐ。
 外では人々が破壊された家屋の、がれきの撤去に奔走していた。近くで様子をみようとジョンが歩くと、どこからか「破壊僧」「破壊僧さまだ」と声が上がり、通りがかった住民に合掌された。
「い、いやぁ」
 人から感謝されるのに慣れないジョンは、ぎこちない笑みを浮かべて会釈した。
「もっと堂々としろい」
 金剛杖は言うのだが「慣れないんだ」と、ジョンは抗弁する。
 やがて瓦礫の撤去作業の現場に近づいた。作業をしている人々の中にはレイジもいた。
「ジョン殿!」
「殿なんて付けるなレイジ! 俺たちは共に戦った戦友だろう!」
 二人は近づいて拳を固く握り合った。
「復活しましたか」
「おかげさまでな。俺に出来ることはないか!」
 するとレイジが少し先、広場になっている場所を指さした。そこには機動寺院の犠牲となった多くの遺体が、ゴザの上に寝かせられている。男たちがやるせない顔で彼らを運び、傍らでは親族たちがさめざめと泣いていた。
「彼らのためにお経をあげて下さい。今、四国にはお経をあげるお坊さんがいないんです。みんな、機動寺院に食べられてしまいましたから」
 レイジの要請を、ジョンは一瞬だけ躊躇した。破壊僧になるのを前提として寺院での教育を受けたジョンにとって、葬式は知識こそあれど実践の経験は無かった。
「わかった」
 それでもジョンは引き受けた。身内を失って打ちひしがれている人々の姿を放っておくことは彼には出来ない。それに彼は一人では無かった。
「大師、段取りを教えてくれ」
「なんだ知らんのか」
「俺は破壊僧だ、葬式なんてやったことはない」
 彼の知る死者の埋葬とは、戦いの後で遺体を並べて読経を挙げ、埋葬する単純なものだった。そこに悲しみを癒す間などない。
 そんなジョンの過去を知ってか知らずか「しょうがないのう」と金剛杖は呆れたように青白くピカピカと光った。

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