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3.11 あの日のこと


2011年(平成23年)
3月11日(金)14時46分

あの日…
月に1度の PTA会合の日だった

遅刻していたわたしは とても急いでいた
午前中で仕事を早上がりさせてもらい
着替えてから家を出る

チャリを飛ばしながら 途中で息子のチャリとすれ違う
「着替えてから部活行くわ」
「うん ママもPTA終わったら練習見に行くね」

学校の正門前で待っていた友人と合流し 体育館へ
外通路で 靴を脱ぎかけていた瞬間・・・

グラッときた
最初地面が揺れているのか
空が揺れたのか判らない
そんな「揺れ」だった

地面に立っている状態で
あれだけ激しい揺れを感じたのは初めてだ
友人と抱き合うようにして後ずさりした

目の前で 息子の顧問の先生が
必死に体育館の軒下の鉄柱を支えようとしていた
「先生!危ない!逃げて!」
叫んでいた

本気で潰されると思った

同時に 中から人々が悲鳴を上げながら飛び出してくる
直ぐ家に電話
でも繋がらない
エレベーターに閉じ込められてるかも?
慌てて家に向かう

友人には まだ小学生の息子がいた
分かれ道… 
お互い 何故か言葉にならず ただ無言で手を握り合った

8階まで 階段を駆け上がった
家に着くなり「R!」と息子を呼ぶ

「やべーよ!」と言いながら
水槽から溢れた水を拭いていた

本当にヤバかった

棚から物はすべて落ち 割れていたし
その後の報道は ぼんやり覚えているが
テレビが あの日に映ったのかさえ覚えていない
というより
その頃頻繁に「パニック発作」を起こしていたので
なるべく見ないようにしていたような気がする

27歳の時
生まれて初めて「一人旅」に出た

名古屋・仙台・岐阜・京都と たったの3日で廻った
仙台のホテルのBarで 年配の男性に声を掛けられる

聞けば 気仙沼の猟師だという
しかし 胸にはそれと判る「代紋」が光っていた

「船に乗せてやるよ」と名刺をもらった
もちろんその後 連絡することはなかったが

あの男性は無事だろうか
と考えていた

すぐに「計画停電」が始まり
我が家は ちょうど境目だったのか 停電はしなかったが
家の東と西で 景色全体が一斉に切り替わり
停電した側は 見渡す限りの「漆黒の闇」

思わず「タイムスリップ」の文字が頭に浮かぶ
人工的な明かりがなかった時代は
こんなにも暗かったのだろうか…
心底ゾッとし 身震いした

あれから8年…

仙台の街は すっかり綺麗になっているが
考えてみれば まだたったの8年なのだ

仮説住宅での 悲惨な状況も耳にするし
心に刻まれてしまった傷を癒すには
まだどれだけの時間が必要なのだろう

被災していないわたしでさえ
まだハッキリと 目にも心にも焼きついているのに
被災者の方たちに
本当の平和が 早く訪れますように 

合唱(。-人-。)

#日記 #コラム #地震 #東日本大震災 #311


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