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【短編小説】紫陽花が滴る頃

キャリーケースをパンパンに詰め込んで、理沙は特急電車に乗った。長期休暇も終わり、明日からまた都会の人間に戻る。

外は雨。六月中旬の今は梅雨の真っ只中だ。車窓から外の景色をぼうっと眺めるのが好きな私は決まっていつも窓際に座る。窓の外に流れていく景色と同じ視界には反射する自分と車内が映る。そして窓際に置いたペットボトルの水がその水面を小刻みに揺らすのを時折見る。

陽が完全に落ちると外は真っ暗で夜の光がより際立って見える。
この特急電車に乗っていると終着駅に向かうまでに見えるタワーの夜景をふいに思い出すのだ。

理沙は大学時代二人の男子と付き合った。
その二人ともと、そのタワーの夜景を見た記憶が微かに思い出される。なぜかタワー本体を直接見るより、車窓を通して見た夜景のほうが記憶と結びつきやすいのだ。

一人目とは理沙の家族とよく行っていたビルのレストランに二人でデートで行ったときのタワー。そのときに見たタワーはレストランの窓から見えたのだが、真正面ではなく斜めに位置していたので窓に反射するタワーを写真に収めた記憶がある。
二人目には、タワーが見える場所で告白されたのだ。ロマンチックだね、なんて言いながらタワーそのものが見える場所ではなくタワーがガラスに映るビルの屋上で。その夜も今日みたいに雨が滴っていた。

あんな風に夜景を見ながら楽しんだご飯も、ロマンチックな告白も。理沙がその日々にピリオドを打ってもタワーはいつだってそこに居座り夜になると輝き出す。

理沙の視線、夜、タワー、窓ガラス、この四つが重なり合うといつも思い出すのだ。
そして今日に限ってあのときのように雨が降っている。

理沙は恋人に対していつだって従順だったように思える。それが相手を飽きさせた。それが自分の気持ちを抑えこみ苦しめた。それが相手に期待を持たせた。素直じゃなくて、良い子で居続けてしまったことを酷く後悔する。
「優しい」なんてのは褒め言葉だと思っていたが、私のことを「優しい」という人のことを最後の最後で私は「優しくない」方法で翻してしまう。

終着駅に着いて改札を出た理沙は目の前のタワーを見上げた。窓ガラス越しでないそのタワーはくっきり見えてぼやけもせず、どっしりと構えていた。

駅前のタクシー乗り場に向かうまでの花壇には紫陽花が植えられていた。今日の雨で満開の紫陽花には滴がついている。金曜日の夜ということもあり、タクシー乗り場には何人か並んでいて、傘をさしたまま理沙は少しの間、紫陽花に滴る雫を眺めた。しゃがみこんでよく見るとその雫の中には反射したタワーの橙色の光が映り込んでいた。

「また見えちゃった」

先程、くっきり見たはずのタワーの光が雫を通して理沙の視界に入ってくる。

「もう同じ失敗はしないんだから」

そう小さく呟いてタクシーに乗り込んだ。

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