すっぴんのままでいられるなら

成功なんて本当は興味がない。

もしも、わたしが一人ぼっちで生きてきたとしたら、上を目指すことや夢を追いかけることもなく、何かを頑張ることもなく、強くもならない。
それなのに、今まで、不格好でも必死に過酷な努力を続けて何かを叶えてきたわたしがいる。

わたしが何かを叶えることを自分のことよりも喜んでくれる家族がいたからだ。

大学受験。就職試験。禁欲な日々と引き換えに、何だかんだ自分の思い描いたゴールに辿り着いてきた。
家族は、わたしの切ってきたゴールテープに満足している。外へ向けた体裁にも、安定に道を進むわたしにも。頑張り屋さんだという言葉でわたしを褒める。

「あなたのことはかっこいいと思うけど、大変そうだからなりたくないな」
「"かこ"を維持するのは大変なんだろうなって思う」
わたしのことをよく知る友達がよく口々にいうセリフが忘れられない。
本当に?わたしは涼しい顔をして生きてきたつもりだった。うそ。


本当は毎日何かに、もがいて生きている。
もがかなくなったらそれはわたしにとって死に近い。
でもそれは、高みを目指すというかっこいい生き方なんじゃなくて、世間に評価されることで自分が自分を許してあげるための、自分の中のたった唯一の方法にすぎない。
大きなすごろくの上で、「1つ戻る」よりも、いや、何なら「ふりだしに戻る」よりも
「1回休み」のコマがいちばん怖い。
ありのままで留まる勇気がない。

わたしには「努力」しかなかった。
誰かに褒められて誰かの興味を引きつける魅力は「努力すること」しか持っていない。
もしも、わたしが頑張らなくなったら、みんな離れていくんだろう。
レールを踏み外したら必死で掬いあげようとするんだろう。もしそのレールの外に快楽の海が広がっていたとしても。

つまらないなと思う。わたしはつまらない。
わたしの中で創り上げた誰かに褒められるいい子ちゃんな理想像の型に自分を流し込むように生きる。
本当はもっと本能のままにやりたいこともあった。たくさん怒られてたくさん失敗して何度も脱線しかけたって良かったんだ。

それなのに。何よりもずっと誰かからの賞賛や承認が欲しがった。
大学受験に合格できたとき。やっと夢を掴んだとき。いや、それよりももっと小さいことから、テストで良い点を取ったときや模試でいい順位を取ったとき、試合でレギュラーに選ばれたとき。
真っ先に浮かぶのは、家族が褒めてくれる想像だった。ひたすらに喜ばせたかった。わたしは本当は出来る子だよって認めて欲しかった。

でも、本当は力一杯必死に出来る子を演じて褒められたって嬉しくなかった。

朝、予定の時刻よりも30分早めたアラームで目覚めて手順通りのメイクをする。
少しも手抜きをせずにビューラーでまつ毛を上げてきっちりと絶妙なバランスのアイラインを引く。
そうやって出来上がった顔のわたしはきっと30分前の寝起きの顔よりもずっとずっと自信をもてるはずだけれど、
本当は心はすっぴんのわたしでいたいんだ。
今日も誰かの目線を気にしている。
すれ違う人と自分を比べている。
世間の優劣の型に自分を押しはめては溜息をついている。
次の課題が湧き出るように追加される。

私らしさとはなんだろう。誰かからの賞賛も世間体もまったく必要としない私らしさとは。
貼り付けられるいい子のレッテルのシールなんていらないんだ。
いい子だから認められて愛されるなんて条件反射のレールに乗るのが悲しい。

わたしは、わたしだから愛されたい。
何かを叶えるわたしでなくても、すっぴんのままのわたしでも、愛されたい。
頑張ることは嫌いじゃないよ。
でも、ほんとうは、そんな何もない素顔こそ。
いつか、できたら愛してください。
わたしも。あなたも。

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