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戯言 「分かり合うこと」

突然、ひとりでいることが寂しく感じることがある。「ひとり」の表記が、「一人」と「独り」で意味が違うとして、前者は物質的で後者は感覚的なのかもしれなくて、わたしはどちらに当てはまるんだろうと考えた。でも、どちらの意味にせよ、わたしは寂しい時は寂しい。
ふと、彼に「ねぇ、それって寂しくない?」と聞くと、「ごめん、ぼくは寂しいという感情があんまりよく分からない」と言われる。
彼はそういう人だ。
だから、わたしはこの人のこういうところが好きなんだろうなと思う。
「寂しさを埋め合おう」なんてセリフでも吐かれたら、寂しいなんて絶対言えなくなる。
分からない人にこそ、分かってもらえる期待なんてせずに、思ったままを話せる。
ジュクジュクした傷なんて、舐めあったら痛いだけだ。

友達に、好きなタイプを聞いたら、「自分のことを好きじゃない人がタイプ」って返ってきたのを何度も聞いてきた。
みんなそう答えた後に、「わたし変ってよく言われるから」って言うけど、その答え、意外と珍しくない。
たまたまわたしの周りの人達だけなのかもしれないけど。
その度に笑いながら、「それ幸せになれないやつじゃん」って返す言葉もセットで、そのやりとりをもう何回やったんだろう。
でも、何でそれが幸せになれないやつなのかはそんなに考えたことはない。
自分のことを好きじゃない人には、好きになってもらおうと自分を変える努力をしなくてもよくて、ありのままの自分でいられるから心地がいいのかもしれない。
理由も分からずに、適当に、幸せになれないやつなんて毒を吐いてごめん。

「好きになった方が負け論」は聞き飽きた。
よく考えたら、何が負けなのか分からない。
愛されるよりも愛したい人は、自分を持っている人だ。
愛するのは自分を変えなくていい。
鬼ごっこで、鬼は追いかけるのをやめられるけど、逃げる方は捕まりたくないのなら、逃げるのをやめられない。
それならむしろ、追いかけられてる方が辛いんじゃないかって思う。
人って、受け身よりも能動的に動いてる方が自分都合にコントロールが効くものだから。
分かってもらおうなんてしなくてもいいだけのエネルギーが働く。

人生において、「何でも共感してくれる存在」が苦手だ。
何でも共感してくれそうな相手には、勝手に気持ちの全てを汲み取ってくれるだろうと期待をして、それを少しでも違えたなら、分かってくれないなんて自分勝手な絶望をしてしまうから。
分かる部分もあるけど、分からない部分もある。
そうやって互いを認め合うためには、腕を伸ばした分くらいの距離感と、湯気を冷ます氷くらいの冷たさが必要だ。

どんどん進化していくIT化社会。
これからの進化に何を望む?って言われたら、今の自分の感情を読み取って、ぴったりな文章を教えてくれるコンシェルジュサービスがあったらいいなと思う。
今の言い表せない感情を言葉にしてくれているのは、この本のこの文章ですよって教えて欲しい。
そうしたら、もしかしたら世の中からモヤモヤした「なまえのない感情」なんて消えるのかもしれない。
自分の考えや感情を言葉にするのが苦手な人も、もっとその思いを上手く誰かに伝えられるようになって、伝えられなかった後悔や分かり合えないがゆえの争いも減るのかもしれない。

でも、本当にそうやって教えてくれるコンシェルジュがいたとして、提供されたそれを読んだところで、わたしは自分の感情に対しては、しっくりとはこないんだろう。
似ているけれど、何か違う。
そんなに簡単に分かられてたまるか。
ぴったりなものを提供されるほど、それが今の感情とぴったりそぐうのか分からない。
『悲しい』を構成する成分の材料に、「希望」が入っている時と入っていない時の悲しみの深さは違うし、『愛』なんて、一体この世に何種類あるんだろう。
そう考えると、世の中に自分しか分からない感情など山ほどあるんだろう。
バックグラウンドから全て共有して、感情を司る器官を丸ごと差し出さない限り、本当に分かり合えることなんてない。

「あなたはわたしに共感してくれる」という言葉をもらった時に、違和感を感じてその人に距離を感じることが、おかしいことなのかと。
こんなことを言うと冷たいかもしれないけれど、たまたま同じ考えであることを、「共感してくれる」と考えられることに、押しつけがましさを感じる。
わたしはあなたにとって絶対的な敵でも味方でもない。
たまたま同じ考え方だっただけだ。

それでもわたしは、家族だったり親しい友達の、人柄や好きなこと、嫌なこと、考え方の癖だったりを理解するのは結構得意だ。
だから、たしかにその人については「分かっているつもり」でもある。
でも、分かったつもりでいると、自分の想像でその人の考えを作り上げてしまう。
この言葉を言ったらこの人は怒るだろうな、この人のこの表情は悲しんでいる表情だと決めつけて、傷つけてしまうことがあるかもしれない。

完全に分かり合えることなんてないって分かっていながら、それでも自分ができるかぎりの想像力を働かせて、寄り添おうとすること自体が優しさなんだろう。
「分かってくれる」「分かってくれない」の物差しで測られるのは、ちょっと窮屈で苦しい。

ずっと答えを探しながら生きている。
誰かの絶対的な味方でも敵でもいられないわたしは、中途半端な存在なんだろうか。


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