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マイ・スペース

どこかのホテルのスイートルームのように、一人で過ごすにはため息が出るほど広い部屋にいる時、人は、何故か部屋の片隅に"自分の空間"を見つけてしまうらしい。
お気に入りのチェアや、本を読むためのデスクは部屋の四隅に寄せてしまいたくなる。
こんなにも広いんだから、もっと部屋の真ん中で過ごせばいいし、自分の空間だって部屋いっぱい使ってしまえばいいはずだ。
それなのに、必要なものだけが丁度すっぽりと収まるくらいの狭い空間がいちばん居心地がいいと思ってしまう。

人間関係も同じだと思う。
広い広い人間関係の輪の中にいるとき、その中心に佇むことは何だか居心地が悪く感じてしまう。
やっぱりどこか片隅に、本当に素のままでいられる小さなコミュニケーションを築いていたくなる。

わたしは、友達はそれなりにいるけれど、どちらかといえば、広く浅くよりかは、狭く深くが好きだ。
小さいけれど、すっぽりと丁度いい空間を愛してしまう。

成長するにつれ、様々な場所で、たくさんの人と出会って関わるようになる。
「よっ友」という言葉を大学生になってから初めて知った。
その名のとおり、すれ違ったらあいさつをするくらいの関係性という意味らしい。
お互いに顔や名前が分かっていて、お互いのある程度のプロフィールの情報は知っている。
けれど、一緒に遊んだり話したりする友達とまではいかないくらいの、「知り合い以上友達未満」の関係らしい。
その言葉を知ったとき、少し怖くなった。
もしかして、わたしが友達だと思っている人も、相手にとったらわたしは知り合いの延長線に過ぎないくらいの存在なのだろうか、と。

人には本当に大切に出来る人数には限りがある。だから、同じ「友達」という括りの中でも、大切に思う優先順位が付いてしまうのは仕方ないことだ。
けれど、「知り合い」いわゆるよっ友と、「友達」の境目にボーダーラインを引けと言われるとどう引いていいのか分からずに苦しくなる。
友達とは、どう定義を決めたら、この人は、友達だと言えるのだろうか。
ある友人はこう言っていた。「自分の結婚式に呼びたくなって、そして来てくれる人が本当の友達だよ」って。本当だろうか。

大人になると、知り合いが増える。仕事上の関係だったり、あまり深く関わってはいけない交友関係だったり。
気軽にお互いを友達と呼べなくなる。
大人になって、どんな関係なら友達と呼んでいいのかますます分からなくなってしまった。

広い部屋の中で、今、わたしの小さな居心地のいい空間には、誰がいるだろうか。
いくつか顔が思い浮かぶ彼、彼女らは、その空間にいてくれるだろうか。

考えるほど、不思議だ。本当は、自分の居心地の良い空間は友達との人間関係で作られるコミュニティーだけじゃないのかもしれない。
例えば、ありのままのわたしをさらけ出せて、みんなありのままの言葉で語っていて、そして余計な線引きなんて必要ない、このnoteという存在とか。

noteにいる、実際に会ったことのない、「よっ友」でもないnoterさん達のありのままの言葉に毎日心が満たされる。
そんな新たな「居心地のいい空間」が出来た最近のわたしは、とてもハッピーだ。

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