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散ってゆくけれど

「もうすぐサクラもお終いだねぇ。きっと、今夜の雨で全部散ってしまう。」おばあちゃんは、縁側に面した小広い庭のサクラの木をぼんやりと眺めながら、皺がたくさんよった目を細めてゆったりと微笑んでいた。

最後のサクラか。道沿いの、もう緑の葉がたくさんでき始めた枝を見つめながら今年もそんな時期が来たなと思った。
美しいものほど儚くて、その儚さこそがまた美しい、と人はいう。
だんだんと花を咲かせてサクラの木を薄紅色に色付かせ始める課程から、綺麗だねぇと愛でられて、満開になれば夜闇をも照らす灯となる。
そして風に乗って散り始めるとサクラのその儚さは一遍の歌になる。
失うことの切なさを儚いとよぶ。
心の、ほんの一筋の切り傷がシクシクと傷んで、そのあとすぐにじんわりと痛みがとろけていくように。

4月の下旬。神様はどうして人間に感情というものを与えたのかと呪いたくなる夜だった。
「おばあちゃんが亡くなった」という1本の電話。
全ての体の信号がいっせいに止まったようだった。
悲しみや悔しさならば自分の中で爆発させて飲み込んでしまえばいい。
誰もいない堤防下を思いっきり走れば一時のあいだ、息が切れる苦しさの中にドロドロとした感情を混ぜて飲み込めた。

悲しみ、絶望、切なさ。色んな種類の刃物の破片が一度に突き刺さって息ができずに苦しいはずなのに、生暖かい麻酔がじわじわと効いてきて、やがてぽっかりと何も感じなくなる。
この世でいちばん複雑な感情は、すべての感情を失うはずの"喪失感"という名のものなのだな。

シワシワになった温かい手が優しく僕の頭を撫でた。泣いていた僕に、だぁいじょうぶよとコロコロと笑っていた声。
あぁ、陽だまりのように、寄り添い続けてくれたものを失うことの切なさは、儚いという名で呼びきれない。

それでも、セピア色の思い出は走る感情に吹かれて色鮮やかに蘇る。
やがてさらさらと心に積もって、少しずつ少しずつ心の穴を埋めてゆく。
それは、ところどころ穴の空いた不揃いの一反の織物になって心にそっと触れた。

「でもねぇ、こうしてサクラが散ると、青い新芽が出てくる。楽しみだね。」
人間だって、失い続けることは出来ないんだよ。そうやって、笑った顔が一瞬滲んで見えた。
今年もサクラが散ってゆく。
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