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良い子でいたかったからDVを受けていた話

今日ふと仕事中に先輩から
「結婚して5年目の友人が旦那と喧嘩して死ねと言われたみたい、どう思う?」
と突然質問してきた。
あれ、先輩の話かな?と思ったけど先輩は結婚して30年くらい経っている。
多分、先輩の娘の友人の話だろう。
話の前後にどういった流れがあったのか私にはわからない、だけどこれだけは言える。
「死ねはよくないですね、暴力です」

話を聞いていくとどうやら妻が家事をしていないことに腹を立てた旦那の言葉だったらしい。
そして家事をしていないといっても、『旦那の思うように』家事をしていないということだった。
怒って物を投げつけてきたりするらしい。部屋の汚れが少し気になっただけで。
コロナが流行ってからというもの世間ではDV被害を訴える件数が多くなっているという。
焦りや不安があると人は攻撃的になってしまうものだ。
攻撃的になる気持ちを理性で抑えられなくなるのかもしれない。
そしてこういった話は悲しいことに“よくある話“なのだ。

たかが「死ね」と言っただけだろう、結婚したのだから我慢して当然だ。
こう言った答えもよく聞くが、人間一度ナメられるとどんどんとエスカレートしていくものだ。
「死ね」と言われそこで我慢をしたら、今度は人格を否定しても許されると思い、相手はどんどんと境界線をなくして甘えてくるだろう。

「死ね」と言われた時点で「無理だ」と思える先輩の友人さんは自分を愛している素敵な人だと思った。そしてまだ「無理だ」と思える体力があるうちに逃げるか、戦うか、向き合うか、友人さんがどうしたいのか決めておいたほうが良いと思った。
そう言おうかと思ったが、その友人さん本人から相談を受けているわけでもあるまいし、何か詮索されてしまうかと思ったので黙っておいた。

私が良い子でいたかったから、黙ってDVを受けていた話

私が過去「死ね」と言われたときは「死んだほうがいいのか」と思って飲み込んでしまった。だから友人さんのその健康的な思考に羨ましくも苦い感情を抱いているのだと過去の記憶の扉を開いてしまった。

だいぶ昔、私は兄にDVを受けていた。
学校ではいじめられ、両親は忙しく子供を放置していて、兄は愛情不足からか私をいじめてきた。いや、暴力を振るってきた。
今ならDVだと言えるが、当時はそんな言葉は知らない子どもだったし、知っていたからと言って誰かに助けを求めることなんで出来やしなかった。
それくらい私は非力だった。
喉やお腹を殴られたり、見られたくない秘密のノートを目の前で見ては音読したり、いきなり部屋に入ってきてはプライベートを暴かれるなど当時心が休まる場所なんてどこにもなかった。
夕飯の食卓で一緒になってしまう時などは、息をするだけで怒られるのではないかと息を潜め、兄の手が上がるだけでビクビクとしていた。
兄が来る足音、止まる息、耳から血が引いていく音、狭くなる視界、鈍る思考
どんなに自分が悪くなくても「ごめんなさい」と相手の怒りを収めなければ死んでしまう、そんな経験ばかり積んでいた。
早く大人になりたくて、大人になったら極力関わらないようにしよう、親がいなくても生きていける人間になろう。と人に甘えずに、隙を見せない良い子であろうとした。
良い子でいれば理不尽に怒鳴られることも(あったけど)
良い子でいれば要らない子だと捨てられることもないだろうと思っていた。

逃げちゃダメ?

この頃の記憶が所々飛んでるので思い出せないのだが、何かあって親に叱られた時、「逃げるな」と怒られたのを今でも鮮明に覚えている。
私のとても受動的で自分のない楽な選択をしてきた部分を指摘していたのだろう。
けれどその時の私には逃げることしかできなかった。非力で味方がいなかった。
なのに「逃げるな」と言われたことに私の大人への不信感は高まっていったのだ。

折しもエヴァンゲリオンが流行っていた時代、もし私がパイロットでエヴァンゲリオンに乗っていたら、逃げちゃダメだと目標をセンターに入れてスイッチしてたと思う。
だけどエヴァンゲリオンなどなく、私は選ばれてもいない普通の子どもだった。
そして、私は倒したい相手を見失っていた。
兄でも、親でもなく、きっとその時に倒したい相手は私自身だった。
だから「死ね」と言われても「確かにそうかもしれない」と納得するくらい、私は私を見失っていた。
だからきっとエヴァンゲリオンがあったとしても「私が死んでもかわりはいるもの」と自爆を繰り返していただろう。
実態のわからない、家族というものを守るために。

しかし今思うとこの「逃げるな」という言葉
DVのカラクリを知らない子どもだった私は「私が悪いから」と自責してしまっていた。
実際は同じ地獄の窯にいてくれ、という足を引っ張る呪いの言葉だった。
親の私だけを置いて楽になるな、という言葉だったのだ。
私が兄の暴力を受け止める堤防だったから。

不健康な家族

強くなりたい、大人になりたい、安心できる自分の世界を作りたい。
そう思って中学に上がってから私は極力家にいないようにした。
遅くに帰っては誰とも会わないように見計らって、ご飯を食べて、お風呂に入ってすぐに寝る。
幸いなことに家から遠い学校だったから朝は早く起きてすぐに学校に行くので会うのは母親だけだった。
そうやって接点を減らしていったことで、兄は私から母へ攻撃対象を移していったのだった。

兄は高校生になって、さらに自分の暴力性を抑えられなくなっていた。
私が社会人になった時に、お前と比べて俺は愛されていなかった、と私に語ったが「はい、そうですか」と思った。
誰もが主人公目線になると悲劇のヒーロー、ヒロインになる。
自分だけが損をしていて、自分だけがひどい目にあうのだと。
悲しさから来る暴力を思考や理性で抑えられなかった兄は、ある日母親と口論になった後、「土下座しろ、土下座して俺に謝れ」と言った。
どんなアプローチでも良いから欲しいのか、こんな最低な事を言ってくる。
母親からしてみれば自分の子どもとはいえ、180センチを超える大男に大きな声で恫喝され、大きな音を立てて物にあたり、椅子や皿を投げ飛ばす興奮した野生のゴリラだった。しかし野生のゴリラは自分はいつまで経ってもおもちゃをねだれば買ってもらえる5歳児くらいだと思っている。さぞかし脳内では可愛い駄々をこねてる自分の姿が流れている事だろう。
下手に刺激もできず、母親としては土下座する親の姿を見て何か思って欲しいところがあったのか、怒りの瞳をしたまま土下座をした。
それを見て兄は少し傷ついた顔をした後、興奮したように笑っていた。いや、傷ついた顔というのは私の妄想かもしれない。
飛び火が怖くて少し離れたところで見ていた私は、なんて不健康な家族なのかと思った。
愛されたくて自分が傷ついた分人の心を殺す兄と、介護と育児にノイローゼ気味の母、何も言えず人形のようになる私、仕事が忙しく家族の事には関与せず旅行や外食で家族を幸せにしていると思っている父、全てが不健全だった。
まともなコミュニケーションも、思いやりも、家族として共生していく事も何もなかった。
完全に機能不全家族だったのだ。
いや、そんな事とっくにわかっていた事なのに、その日突然思ったのだ

「あ、もう無理だ」

頑張って頑張って、なんとか家族という形にしがみ付いていた私は、私がクッションになって犠牲になっていた。
しかしそんなところでドラマに出てくる家族のようにプリンを食べられたなどの理由で喧嘩しては仲直りする、なんて家族になるわけなかったんだ。

ああ、ドラマのような家族を一度で良いから演じてみたかったな、いつも苦労かけるね、あなたは良い子だね、そう言って頭を撫でて欲しかった。
抱きしめてお母さんの匂いをいっぱい嗅ぎたかった。
綺麗に髪を結ってもらって、学校に行きたかった。

きっと兄も、母も、理想の家族像があって、そのギャップの中でひどく足掻いていたんだ。
私がもっと悪い子で、わがままを言ってお母さんに抱っこしてと言える子だったら、兄に「お兄ちゃんなんて嫌い」って言えてたなら、あの不健全な日を迎えることは無かったのかもしれない。


そんな事をぼんやりと思い出していたら、どう思います?と先輩はすぐそこにいた上司に質問を投げかけた。
上司は「そんなやつすぐ別れてしまえ」と言った後に
「いくら相手に言えないからって自分のそういう大事な決断を人に判断してもらおうと相談してる時点で二人の関係は終わってる」とバッサリ言った。
暴力を振るう男ばかり責めていた先輩は「まぁ、そうだね」と笑った。
その流れに私は苦々しくも、兄を恨んでいた私と、何も言えなかった自分を重ねていた。

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