見出し画像

2015年10月18日。

岩見沢市民会館で佐竹直子さんの講演をはじめて聞いた。いま思い出しても涙が止まらない。嗚咽のような涙。止まらないから書いている。いまのこの情動を忘れたくないから。


岩見沢で「佐竹直子さんを呼ぶ会」が発足し、実現した講演会。若い方も数名いたが、参加者は年配の方ばかり。80名はいたのではないだろうか。値段にかかわらず、こういった講演会への関心の高さにはすごいエネルギーを感じる。自閉症スペクトラム教育家の服巻智子さんや田中康男さん、絵本セラピーやスピリチュアルなセミナーへの社会的関心の高さは、受け入れなければならないと思う。学校現場と社会のズレはこうしたところでも顕著に見られている。

「作文教育」について、ありのままに書くということのいまでは当たり前のことへの教師たちの情熱、その当たり前のことが認められなかった社会情勢、佐竹さんの語りに触れることが出来て良かった。「書く」ということの有用性についての研究は多数見られるが、現在の現場では、多様なアウトプットの方法が提案されており、【合意的配慮】の意識のもとに、「書く」ことが子ども達にとって強いられる印象がある。しかし、当時の子どもたちは、教師たちのまっすぐでひたむきな情熱のもと、いきいきと「書く」ことを選択している。

ひなた学級で毎朝やっていたという
「さあ、目を閉じて。今日、どんな一日にしようか考えよう」
なんとステキな語りだろうと思う。いまでいう協同学習のような取り組みも紹介されており、昭和8年ころの教育者たちの情熱にまだまだ学ばなければならないと感じた。目の前の子どもたちを大切に見つめていたであろうまなざし、いまのように理論もツールも不自由な時代にこそ見られた教育技術を越えた学習を今一度見つめ直すべきだと思う。

教え子たちが先生を助けるために札幌駅まで向かったことや、教え子たちが還暦のお祝いに当時の先生を迎えて特別の授業を行った際のエピソードが忘れられない。1984年の授業を覚えていますか?という問いに対して佳子さんが、
「私たちはまた先生の笑顔に会える。それだけで嬉しかったんです。内容とかそういうことではないんです。」
と聞いたとき、子どもにとって先生ってどんな存在で、安心・安全を感じられる場づくりとは、どんなものなのか、はっきりと見せてもらえたように思う。

あれから100年以上、戦後70年になるけれど、ヴィゴツキーの発達を先回りした情動をとらえた教育とスキナーの情動から現れる行動に注目した教育と、、、結局、私たち日本には、教育の過去はあるものの、歴史といえるものを形成してこなかったのだと思う。

100年以上のときを越えて、やっといま、教育について語られるようになってきた。というのに、私たちは教育における経験知に頼ろうとしている。そればかりが斬新で分かり安い在り方であるかのように捉えられている。

ちがうんだよ、ぜったいにちがうんだよ。それでは、本当の意味でインクルーシブな社会にはならないのだ。

今日の学びを引用する。
「いま流行する華やかな心理学や教育学の諸潮流に浮き足立つことなく、また、それらの潮流のパッチワークや安易なパンフレット合戦に手を染めることなく、弁証法的唯物論の立場から、アイデンティティ構築と一回性の意味生成システムをもつ「固有名」の主体を対象化し、情動を包摂した人間の恢復と発達を支援することのできる教育学の構想が求められている。」

この問いに答えるのが、私の挑戦。この文を読むと、相変わらず小難しいことを言っていて、わかりづらいと思われることだろう。しかし、この小難しい問いを理解できるまで対話しなければ教育者とは言えないのだよ。わかりやすく伝えるとか、私の言うことがわかりづらいのではないのだ。これこそが、ぜったいはない世の中で、唯一のぜったいなのだ。無知な自分、教育とはわからない、だからこそ、情動と行動を合わせて捉えられる教育学が必要だ。

古典に学べ!!

とは言いつつも、学びたいもののみが学べば良い。どこでもだれとでも。ただし迷ったら、新しい流行に飛びつくのではなく、【古典に学べ!!】とだけは、強く言っておきたい。

おしゃべりの最後に、、、「時間と空間と、仲間だろ」と言ってもらえたことがものすごく嬉しかった。教育人間塾、遠友夜学校に似たような理念で、学ぶ場をつくりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?