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【新刊試し読み】『アジア多情食堂』|森まゆみ
伝説のタウン誌『谷根千』の編集人として活躍し、その後、数多くの文芸作品を上梓してきた森まゆみさんの著書『アジア多情食堂』が2月15日(水)に発売されたことを記念して、本文の一部を公開します。
本書について
50代から60代にかけて、アジアの国々を訪ね歩いた著者の旅紀行。中国、韓国、台湾といった隣国から、タイ、ラオス、ベトナム、インドなど、計11ヵ国を縦横無尽に駆け巡った旅の記録。気の向くままにぶらりと日本を出て、持ち前の行動力と好奇心でアジアの街を歩く。現地の人々とのふれあいや美味しい食事との出会いのほか、その国の歴史や文化を著者独自の視点で考察したユニークな旅の記録。時に旅情豊かに、時に舌鋒鋭く描かれる森まゆみならではの旅を味わえる一冊。
試し読み
多情食堂
多情食堂。韓国で見たのか、こんな名前の食堂がほんとうにあるとは驚いた。
写真に収めたが、字体も好きだ。韓国はおいしい国である。
最初に行ったのは1973年、18歳の時、当時は朴正熙大統領のころ。
そしてそれは金大中氏が東京で拉致された夏だった。その夏、おいしいものに当たった記憶はない。ソウル郊外の学校に分宿して毎日、もっこ運び、道を造らされた。まだ田舎には冷蔵庫もなく、コーラを日だまりの水を張った桶に入れて売っていた。村の祭りで食べた三日月のような形の、餡の入ったお菓子がおいしかったくらい。
そのあと、何度か行った。どこへ行っても銀色の金属の椀にたくさんの辛い前菜が出てきて、あとは白いご飯があればいいとさえ思った。好き嫌いはほぼない。唯一降参したのは南の港町木浦で頼んだホンオチムである。ガンギエイを発酵させた鍋で、アンモニア臭がすごい。一口食べて一同、無理とわかり、隣の席の家族に「召し上がります?」と聞いた。そんなの失礼かも、と思ったが、同行の韓国人の女性写真家ミーヨンがいとも気軽にそう聞いたのである。家族はとても喜んで、鍋ごと引き取ってくれた。
代わりに私たちはナッチというイイダコのようなものが入った海鮮鍋を頼んだ。それはとてもおいしかった。でもミーヨンは「このナッチは新鮮で生きているから、口の中でちゃんとかみ切らないと、吸盤が食道にひっつくよ。それで死ぬ人がよくいる」と言うのだ。脅かさないでくれ。もちを喉で詰まらせて救急車で運ばれるお年寄りはいるが、たこの吸盤で窒息死する人は日本にいないと思う。とにかくよく嚙んで食べた。
木浦は雨が降っていた。金大中の育った土地で、日本時代の建築がかなり残っていた。ミーヨンは「木浦には雨がよく似合う」と言う。悲しみの漂う町なのだそうだ。
韓国料理はたいてい好きだ。なかなか現地にいけないから町屋、三河島あたりの店に繰り出し、サムギョプサルや春川タッカルビを食べる。ソウルのコンクリート打ち放しの店が豚バラの脂でテカテカ光っていたことや、春川で体調を壊したときに、この鶏肉料理は余り辛くなくて、胃に優しかったことを思い出す。
目次
第1章 味な話
第2章 おとなりの国々へあちこち
第3章 少し遠いアジアをめぐる
著者紹介
森 まゆみ
1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。著書は『鴎外の坂』〔芸術選奨文部大臣新人賞〕『「即興詩人」のイタリア』〔JTB紀行文学大賞〕『「青鞜」の冒険』〔紫式部文学賞〕など多数。「わたしの旅ブックスシリーズ」(産業編集センター)として『用事のない旅』『会いにゆく旅』『本とあるく旅』『海恋紀行』がある。
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『アジア多情食堂』著/森 まゆみ
【判型】B6変型判
【ページ数】248ページ
【定価】1,320円(税込)
【ISBN】978-4-86311-353-4