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【新刊試し読み】 『旅する桃源郷』|下川裕治

これまで数多くの旅関連書籍を刊行してきたベテラン旅行作家、下川裕治さんの新刊『旅する桃源郷』が7月18日(火)に発売されたことを記念して、“はじめに” を公開します。


本書について

 今も精力的に世界を旅するベテラン旅行作家が、これまでの旅で出会った「桃源郷」を紹介。
 ラオスのルアンパバーン、パキスタンのフンザ、ウズベキスタンのサマルカンド、日本の多良間島、チベットのラサ、そして著者の故郷である長野県安曇野。自分にとってそれらの地がなぜ桃源郷なのか、自らの人生を重ねながら、その理由を紡いだ珠玉の紀行エッセイ集。
 旅の桃源郷は人によって違うが、そこに至るプロセスは酷似している。それぞれの桃源郷をみつけてほしい——と著者は読者に問いかける。忘れかけていた旅の魅力と力を改めて思い起こさせてくれる一冊。


試し読み

 はじめに

 誰にも好きな街がある。国内外は問わず、気に入った街がある。なぜ、その街が好きなのか……と一歩踏み込んで考えてみると、人生とか生き方といったものにかかわっていることは珍しくない。
 好きな街というと、景色がみごとだといった視覚の記憶や、食べ物が気に入っているといった味覚など五感に刻まれた印象がまず浮かびあがってくるが、その先には、ひと口でいえないような思いが顔をのぞかせる。
 たとえば水……。本書でも水にまつわる桃源郷の話を書かせてもらった。
 シルクロード……。そこに流れる壮大な歴史に惹かれて、僕は何回となく訪ねるのだが、そこで水のおいしさに魅了されていく。そしてその味は、僕が育った信州の水につながっていく。そこには桃源郷に辿り着く二段階のステージ、いや三段階のステージがある。
 しかし水の味を伝えるのは、なかなか難しい。一杯の水にしても、炎天下を歩き、ようやく家に帰ったときに飲む冷たい水は、どんな料理にも勝る。日頃飲んでいる水が、その瞬間は震えるほど体と心を満たしてくれる。
 旅というものには、そんなシチュエーションをつくってくれる因子が含まれている。
 暮らしている日常とは違う世界に入り込んでいるわけだから、要領がつかめない。日本ならどこにあるのかがすぐにわかる水がなかなかみつからないこともある。
 僕もはじめは、こういったアプローチでシルクロードの水に出合った。シルクロードのエリアの気候は甘くない。冬は氷点下になるほど冷え込むのに、夏になると気温が40度を超える熱気に包まれる。内陸にあるから空気はいつも乾燥している。そういう世界を歩き、オアシスに辿り着く。そこで出合った井戸水はとんでもなくおいしいのだ。
 しかしその水のおいしさは、状況の落差のようなものが生む魅力にすぎない。
 「シルクロードは水の道だな」などと呟きながら水を飲む旅をつづけているうちに、その水が体に入り込んだときに、悪寒が走るような嫌な感覚に陥ることに気づく。それは長い時間つづかず、やがてぴたりとはまったジグゾーパズルのように収まってくれるのだが、そのちょっとした時間が気になりはじめる。そして信州の安曇野の水に結びついていくのだ。
 僕が育った土地の水。それは山に積もった雪が伏流水になってくだり、湧出した水をベースにしていた。その水で育った僕の体には、伏流水のDNAのようなものが刷り込まれ、シルクロードの井戸水に反応する。
 こういった時間と道のりを経て、シルクロードは僕にとっての桃源郷の領域に入り込んでくる。
 なんだかめんどくさい桃源郷への道のりの話になって申し訳ないが、そういうプロセスを経て、好きな街が桃源郷に変わっていく。好きの先にある桃源郷……。
 本書で紹介しているのは、僕にとっての桃源郷である。それを読者に強要するつもりはない。しかし読み込んでほしいのは、みごとな眺めや味は、それぞれの人生にシンクロしてはじめて桃源郷という天上界にも似た世界に昇格するということなのだ。だから旅の桃源郷は人によって違う。しかしそこに至るプロセスは酷似している。
 コロナ禍は僕だけでなく、ほとんどの人の旅を封印してしまった。そんな年月を経て、ようやく、自由に旅に出ることができるようになったが、腰が重い日本人が多い。旅に出なくてもやっていける……という言葉を耳にすると、「皆、そんなに強いのか」と呟きたくなってしまう。旅にでない日々のなかで出合う世界は生々しい。人生と一体化している。
 しかし旅で出合う桃源郷は、旅という日常を離れた世界の先に見えてくるものだ。自分の人生とシンクロした世界である。そのなかに身を沈めると、やはり心地いい。そういう世界を歩きながら、僕は心の均衡を保ってきた。日本にいてはできることではなかった。
 70歳近い年齢になったが、僕はこれからも旅に出る。つらくなったら、これまでつくってきた僕の桃源郷に逃げ込む。それが僕の財産のようにも思う。
 僕が桃源郷に出合っていくプロセスを確認するように読み進めてほしい。そしてそれぞれの桃源郷をみつけていってほしい。いま、そんなことを思っている。


目次

第一章 桃源郷には音がない——山にかこまれた小さな王国
ルアンパバーン(ラオス)/チェンマイ(タイ)/ラーショー(ミャンマー)/フンザ(パキスタン) 
第二章 小島の桃源郷——サンゴに海に小径がつづく
多良間島(日本)/宮古島(日本)/エーゲ海(ギリシャ)/サハリン(ロシア)
第三章 水の桃源郷——湧水に出合う旅
サマルカンド(ウズベキスタン)/シルクロード(中央アジア)/ローイクラトン(タイ)/安曇野(日本) 
第四章 刻まれる歴史——翻弄される時代のなかに桃源郷
香港(中国)/タイ料理(タイ)/菁桐(台湾)/ラサ(チベット)
第五章 桃源郷で人生を忘れる
シンガポール(シンガポール)/ダラット(ベトナム)/コックスバザール(バングラデシュ) 


著者紹介

下川 裕治
1954年(昭和29)長野県生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応義塾大学卒業後、新聞社勤務を経てフリーに。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビューし、以後、アジアを主なフィールドにバックパッカースタイルで旅を続け、次々と著作を発表している。『週末ちょっとディープな台湾旅』『週末ちょっとディープなタイ旅』(朝日新聞出版)、『旅がグンと楽になる7つの極意』(産業編集センター)、『沖縄の離島 路線バスの旅』(双葉社)など著書多数。

『旅する桃源郷』に関する動画も公開されている、下川裕治さんのYouTubeチャンネルはこちら↓


『旅する桃源郷』
【判型】B6変型判
【ページ数】240ページ
【定価】本体1,375円(税込)
【ISBN】978-4-86311-370-1


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