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イタリアからの一時帰国と罪悪感 つづき ①

(参考までにこの写真↑は、学校やスカラ座などが閉まり始めた、2020年3月3日雨の日のミラノ)

(※保存していた記事なので公開日と少しタイムラグあります。ご了承下さいませ。)

そんなこんなで飛行機のチケットを取ったわけだが、まさか数日後にイタリア全土封鎖となるとも全く想像していなかった。がニュースを見れば日に日に感染者数は増えて行き、、でもどこかで、そのうち落ち着くのではないかと思ってもいて、それも、発生国の中国ではないから、と言う考えもあった様に思う。

航空機のキャンセルは予想はしていたが、その予想通り出発前日の3月9日月曜の朝には、マルペンサ→ローマ(アリタリア)便のキャンセルメールが届き、状態の悪化を察した瞬間だった。

勿論アリタリア航空の電話は一向に繋がらず、さぁどうしようの状況。

家族や友人からのアドバイスは、まだキャンセルになっていないリナーテ空港発(ミラノのもう一つの小規模空港)の便で行けと、チケット変更は直接空港にいる人が優先の可能性がある、

とのことだったので、翌日出ていては遅い、、前乗りしてローマで一泊か、、と色々考えながら、あぁこんな思いするなら部屋にこもってでもいいからミラノに留まろうか、、とも考えもした。(この期間少しナーバスになっていたので考えが絶賛後ろ向きです、、笑)

しばらくベッドの上や部屋の中をうろうろしながら、今からの荷造り、空港までの所要時間、予想できる混乱とチケットの変更などに懸けるのであれば、その日中に電車でローマに行く事に決めたのだった。

ネットでフレッチャロッサのチケットを取り一先ずほっとした私。ローマまで3時間、、うん、ローマに友人もいるので少し安心。ひとまずミラノを出なければと荷造り開始。

実はそれまで、規制があるにしてもミラノでは穏やかに生活できていたので、自ら混乱を選択し身を投じた感もあり、なかなか周りのミラノ友人にも言えず。(もちろん会った友人たちには知らせていました。)

と言うのも、変に帰国を宣言し不安を煽り、生活の平安を乱すのも申し訳ない様に感じたし、さらには、この選択が吉と出るか凶と出るか、かなりの賭けだった。それほど、その日までの人々の生活は穏やかだったのだ。

さて、荷物も多くないので、程なくしてミラノ中央駅に向かった。この時点ではトラムにも街にも地下鉄にも、少ないながら人も出ていた。が、観光客や中国人もほとんどいない為、スーツケースをゴロゴロ、明らかにして脱出組みとわかる東洋人の私は浮いており、ここでも少なからずお得意の罪悪感を感じてしまうのであった。。

4月にはすぐ戻るつもりだったので、4月分の地下鉄などの定期のチャージまで済ませようと駅のタバッキに寄ったが、一人ずつの入店と制限されていたり、空いている店舗はあったがそれなりに対策をしている模様。

あぁ、こんな歴史上語り継がれるであろう状況下、こうして街に出て色々見て気づく事もあるな、、としばし感慨深い思いを馳せながら改札にいくと、普段見慣れない光景。

前日の様な混乱はなく閑散とはしているが、ミラノを離れる理由を書類に記載する必要があり、警察と兵士達が完全防備で改札で待ち構えていた。さぁ私は通してもらえるのか。

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(2020年3月9不謹慎かもしれないが、記録用に写真などを撮りながら一呼吸おき、いざ改札へ。チケットを示し、「航空機キャンセルのためローマに向かう」と穏やかに説明してみる。‥がしかし、顔をしかめた若い警察官は「no......だと思う...」と。ただ、「だと思う、、」と自信なさげ。そして同僚警察官にも意見を仰ぐ。

まぁ、ロンバルディア州封鎖になった当日だったが故、分からんでもない。その表情を読むからに、何としてでも感染者数を抑えなければなら無い、と言うかつてない切迫した、緊張感の漂う雰囲気を感じた。仕事上の行き来は認められている様子で、その人たちは定期券を提示し颯爽と通過していく。

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途方に暮れる私を見かね、そして彼らも判断できず、一言「あそこにいる僕らのボスに聞いてくれ」と。

わかった、、とボスのいる別の改札へ向かい恐る恐る、「日本へ帰らなければ行けない、、」とチケットを見せた。「ん?日本へ帰るの?‥そうね勿論オッケーよ!」と。あっさり。うわーやった、、、!とにかく良かった。うんうん、そりゃそうだ、日本に帰る分はイタリアの管轄ではないからね、と大きく納得し、仕事のできる女性のボスかっこよすぎる、爽やかだ、と一人ぶつぶつ思いながら、冷汗を拭うのだった。

つづく

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