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目にする景色の向こう側 中編

日が落ち始めていたため、野営する場所を探し始めたが、辺りは急な斜面の山あいの道。テントを張れるような平らな地形がなかなか見つからなかった。しばらくそのまま走り続けると、簡単な石垣で囲んだ大きな放牧場のような場所が見えてきた。囲いの中には数十匹の羊と、長くて黒い紐のようなものを手にした老人が1人。その敷地の少し先の方には、簡素な家がいくつか見える。どうやら地図にも載らないような、小さな集落みたいだった。そのまま進んでもしばらく地形は変わりそうにない。日が暮れて暗くなるのを避けるため、その集落のどこかで寝る場所を見つけるしかなさそうだった。

振り返ると、相方はまだ遠くのほうにいる。放牧場の前で止まって待つことにした。パンッ!突然、何かが破裂したような、大きな音が聞こえた。びっくりして音のした方を向いてみたが、どこから鳴っていたのか分からなかった。しばらくするとまた、パンッパンッと今度は2回鳴る。あの老人の方から聞こえてきた。どうやらあの長い紐を使って鳴らしたようだ。体の倍ほどの長さの紐を、大きく上空に振りかぶり、器用に地面に叩きつけて鳴らす。鞭のようなものだろう。家畜を飼い慣らすために使っているのだろうか。

羊に対して行なっていると思っていたが、その後も老人の方を見つめていたら、どうやら私に向かって鞭を振っているよう様子だった。友好的な挨拶のつもりで手を振ってみたが、返事はなく、また鞭を振り下ろす。パンッ! 攻撃的な音は、とても挨拶には見えない。威嚇されているとしか思えなかった。とはいえ何か言ってくる様子でも、近付いてくるわけでもない。少し不気味で不穏な印象を受けたが、鞭を自慢したいだけだと自分に言い聞かせた。相方が追いつくと、今度はそちらに向かってまた鞭を振る。彼女は驚く。でもそれだけ。表情も分からないほど遠くにいる老人は、また何度か鞭で地面を叩いたあと、羊の方を向いて仕事を再開したようだった。

地域の土を焼いて作ったブロックを使っているんだろう。まるで地面からボコッと隆起して出来上がったような、土地と同じ色をした小さな家が佇んでいる。10軒ほどだろうか。遠目に見たところ人の気配はなく、車やバイクも無い。集落の少し手前までたどり着いた所で、向こうから犬を連れた人が歩いてきた。50代頃に見えるその男は、農仕事の後なのか、土にまみれた作業着で、右手には木の棒、左手には食べ終わったチョコの袋を握っていた。あばら骨が見えるほど細い体の老犬が、男のすぐ後ろを申し訳なさげに着いてきていた。

男は話しかけてきた。すぐに握手を求めてきて、やたらと友好的というか、テンションが高い。普段目にする恥ずかしがりであまり表情を変えない高地の人々とは正反対で、印象的だった。キャンプする場所を探していると伝えると、自分の土地ではなさそうな所を、何箇所か案内してくれた。どこも斜面になっていたり大きめの岩が転がっていたりして、テントは張れそうにない。もう少し自分達で探してみると伝えて別れを告げると、コインでいいから少しお金をくれ。食べるお金が無いんだ、と菓子袋を握りしめながら言った。

集落の中まで歩いて行くと、学校らしきものが見えて来た。土の校庭にはサッカーゴールがあり、芝生がまだらに生えていて、適度に整備されている。この大きさの集落にしては立派な校舎だった。許可を取ろうと辺りを見渡すが、見える範囲には誰もいない。陽は傾き始めていて、相当に疲れていたことあり、校庭にテントを張ることにした。

深夜、犬たちが一斉に吠え始めて目が覚める。誰かが何かを叫んでる。あの男だ。酔っ払っているのか、大きな声で歌い出した。音が移動する。歩いているらしい。集落中に響く大きな声で歌っている。おそらく家の中まで届く、よく通る大きな声で、住人は誰も彼を怒らないのだろうか。

声が段々と近付いてくる。どうやら校庭の中に入ってきたようだった。少し警戒し始める。テントを開けて外を覗いてみるが、雲が隠す暗闇は何も見せてくれなかった。休むことなく歌い続け、時々なにかを叫ぶ男。私たちのテントに気が付いたのか、歌詞の中にチーノ、ハポンが混じりながら、さらにテントに近付いてきた。さすがに少し恐怖を感じて、念のためテントから顔を出して声をかけた。ろれつが回っておらず、何を言っているのか分からなかったが、声の調子や態度を見るに、ゴキゲンなだけで攻撃的な様子は全く無い。安心した。話し終わると、男はテントのまわりをぐるりと一周して、また遠ざかる。校庭の端に留まって、引き続き歌っていた。

歌声をよく聞いてみると、実はとても良い声をしていた。またチーノと聞こえてきた。歌詞は適当に自作しながら、何かを訴えるように歌っているのかもしれない。歌い方には不満や嘆きのような感触を帯びているが、旋律は歌謡曲のようで分かりやすくて明るい調子で、なにか深みや哀愁のようなものを感じた。深夜の学校ではなく、街に出て路上で適度な音量にして歌えば、それなりにお金を稼げるのではないか。本人が気持ち良くて歌っているだけだろうが、場所や出会う人が違えば、歌い手として生活出来てしまっていたのではないか。そう思わせるほどのなにかを持っているように感じた。1時間くらいは経っただろうか。途切れることなく歌い続ける男の体力に、少し感動を覚える。時間は深夜2時を過ぎていた。

音が移動し始めた。引き続き歌いながら、来た方向へ帰っていく。あの様子だと、疲れた感じではない。満足したか、また酒でも飲みに帰ったか。眠っていたところで大変迷惑だったが、部外者は私たち。男は何も気にしていない様子であったが、邪魔をしていたのはむしろこちらのほうだろう。子守唄にするには音量を上げすぎていたが、悪くない歌だった。声が聞こえなくなるのを確かめて、もう戻って来ませんようにと祈りながら、また眠りに入る。

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