ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』

 戦争の荒唐無稽さをこれでもかと提示した戦争文学の傑作のように言われる本作。しかし、上官の命令には絶対服従、出世を図るためには事実も前言も歪められ、人命などまるで顧みないといった上層部の様子は、文書がなくなったり記憶がなかったり誰かが勝手にやっただけであったり30年後の自分が何歳か考えたり、といったニュースを日夜耳にしている私たちにとっては少しも遠い感じがしないだろう。

 そうした指揮系統に振り回され、常に命を危険に晒しているのは実際に出撃する兵士たちだが、主人公ヨッサリアンのように命を惜しんで出撃を拒もうとすれば狂人扱いされる。終えれば帰国できるはずの責任出撃回数が段階的に何度も引き上げられ、他の部隊の隊員の数倍も出撃させられているにもかかわらず。さらに、狂人であれば出撃を免れるはずなのだがそうはならない。そこにこの小説の中心となるジレンマがある。

もし出撃に参加したらそれは気が狂っている証拠だから、出撃に参加する必要はない。ところが、出撃に参加したくないというなら、それは正気である証拠だから出撃に参加しなくてはならない。ヨッサリアンはキャッチ=22のこの条項の比類のない単純明快さに深く感動し、尊敬の口笛を鳴らした。・・・ヨッサリアンはそれが目くるめくような合理性を持っていることをはっきり認めた。その部分部分の完全な組合せには省略的な精密さがあり、すぐれたモダン・アートのように優美であり衝撃的でもあった。(上86-87)

 このような抜け道のない論理に板挟みになり抗議を繰り返すヨッサリアンは、出撃回数が増やされ、親しい兵士が一人また一人と様々な死に方で死んでいくなかで次第に追い詰められていく。彼が経験する人の死や、領されて荒廃したローマの市街の悲惨は、あらゆる出来事から乖離したところで進行する地位と名誉のゲーム、あるいは行政上の人の死(着任前に出撃して死んだため存在しないことになっているマット、そして墜落した飛行機に乗っていたことになっているため生きているのに死んだことにされるダニーカ軍医)と際だった対照をなす。

 しかし、そのような規定を運用する国家を骨抜きにしながら、実態のなさという点で通底するものがある。私企業と資本主義のドライブだ。炊事係将校であるマイローは、全ての将校が「一株持っている」ことになっているシンジケートを作り、ヨーロッパからアフリカまであらゆる地域で食糧その他を買い付け、別のところで売り、価格を操作し、うまいぐあいに大儲けし、あらゆるところで市長や国王代理といった地位を与えられ、自分の属する隊の備品を抜き取ってそれも商売に使い、果ては敵軍と自軍と同時に別の契約を締結し、自分の軍の駐屯地を攻撃しさえする。

 こうしたジレンマや、根のないところに何かが拡がっていくといった基調低音とも言える要素が様々な人、場面で変奏されるのもこの小説の特徴の一つだ。たとえばメイジャー少佐の父親は、よく分からない商売をしている。

彼の専門はむらさきうまごやし(アルファルファ)で、彼はそれを少しも栽培しないことをうまく利用した。政府は彼が栽培しないアルファルファ一ブッシェルについて多額の金を彼に支払った。彼が栽培しないアルファルファが多ければ多いほど、政府はより多額の金を支払い、彼は治部で稼ぎ出したのではないその金を一セント残らず使って新しい土地を買い入れ、自分で栽培しないアルファルファの量を多くした。メイジャー少佐の父親はアルファルファを栽培しないために休みなく働いた。冬の夜長には、彼は家のなかに閉じこもって馬具の修理をせず、毎日、昼まだきに床を蹴って起き、ひたすら日常の用事をすましてしまわないように気を配るのだった。彼は賢明に土地を購入したので、まもなく、郡内の他のだれよりも多くアルファルファを栽培していない状態になった。(上159)

 そしてこの変奏という手法は、例えば資本と個人といった明瞭な対立を流動化させることに役立つ。アイロニカルな形ではあるが、ヨッサリアンもまた、しないことで何かを得るという同じ理屈を身につけているからだ。

なかでも彼はピアノーサ島の将校クラブをどれよりも誇りにしていた。それは彼の決断力を示す頑丈で複雑な構造を持った記念碑のごときものであった。ヨッサリアンはその建物が完成するまで、いちども手伝いにはいかなかった。完成後は、この大きくて、りっぱな、うねりくねった板葺き屋根の建物が非常に気に入ったので、しょっちゅうそこを訪れた。それはまことにみごとな建築物であり、ヨッサリアンはそれを眺め、その完成に至る仕事のただひとつも自分のものではなかったことを考えるたびに、おれは一大事を成し遂げたのだという誇りに胸をときめかせるのであった。(上33-34)

 このようにして大戦と資本主義の不正と不条理があらゆる形で染み渡った小説の語りはどのようなものか。それはもう、混乱のただなかにある。時系列は乱され、同じエピソードが繰り返し語られる。彼らが経験するデジャヴュの感覚は読者が物語の構成に対して感じるそれであるし、出来事の順序をおぼろげに理解できるのは、それが出撃回数がどこまで引き上げられた時点だったのか、それぞれの人物がまだ生きているかどうか、そして第二次大戦に関する(作者の誤りを含む)歴史的な事実しかないように思われる。このような混乱を、訳者は現代資本主義社会の不条理、死を前にした青年たちにとっての時間的秩序への無意味さ、そして何よりヨッサリアンの精神的秩序によって説明している。そうだろうと思う。

 時系列の記述は歴史記述と切り離すことができない。軍事的、政治的な歴史だけでなく、文学史のキャノンを書く仕事にしてもそうだ。入院中に下士官の手紙の検閲を任されたヨッサリアンは、検閲者の名前として「ワシントン・アーヴィング」と署名をし、それによって上層部が混乱し、特捜部が捜査に現れる。それを知った別の少佐が自分の署名しなければならない書類に「ワシントン・アーヴィング」の名前を書き始め、結局ワシントン・アーヴィングなる架空の(!)人物は少佐から書類を奪い取ったりなんやかやと暗躍する者として嫌疑をかけられる。

 アーヴィングはアメリカで小説が成熟する以前の作家で、リップ・ヴァン・ヴィンクルの話なんかが今でも有名だけれども、別の名義、語り手と同名の作者という体で何冊かの本を出版している。ヨッサリアンが入院する病院ではベッドを交換して別人として扱われることも茶飯事であれば、軍医の指示のもとで瀕死の病人のふりをして他人の親戚と面会するといったことも横行している。さらに、彼を直接知らない上官はヨッサリアンという名前に度々困らされるものの、それが同じ名前を持つ別人なのか、一人のヨッサリアンなのかを判断することができない。

 名前といえば、名前の明らかにならない重要人物がいる。若い将校であるネイトリーが熱烈な恋に落ちている娼婦「ネイトリーの女」だ。最終的にネイトリーを愛するようになった彼女は、ネイトリーの戦死を知らせたヨッサリアンを殺そうとして執念深く追い詰め、最後にはナイフを腹に打ち込んで半殺しにする。最後の数章における彼女の変幻自在で神出鬼没なプレゼンスは、名前が与えられていないことも相まって異様なものになっている。

 こうして名前はうまく個人を指し示すことができず、不調を来した指示機能は命令系統を破綻させる可能性をも秘めている。個人がぎりぎりのところで、識別番号で管理されることがなく、名前というシステムが存在しているためにそれを失調させることができる。私には手に負えないけれど、小説と固有名の関係に関する議論をここで行えば卒論1つくらい仕上がるだろう。

 もしまっすぐに読むとしたら、訳者のあとがきから引用しておけば足りる。

痛烈でユーモアに富む風刺の底に、現代知識人の責任への鋭い問いかけと、その解決への―絶対に安易とは言えぬ解決への―ヒントが潜んでいるからだと思う。戦争小説という表皮の内側に、現代社会の不条理に対する風刺という肉があり、その骨に、人間の生の意味を問う実存主義があり、さらに言うならば、その髄に人間愛があるとも言えそうだが、厳密に言うと、ヘラーの人間愛も実存主義もけっして単純なものではなく、人間はその精神の重要な部分において環境の支配を脱しえない、あるいは選択の自由のきかぬ宿命に呪縛されている、といった一種の暗い諦念と、その諦念をうち破ろうとする意志力との悲痛な葛藤が常に伴っているように見える。(「訳者あとがき」下425-26)

翻訳者らしい作品との距離感だと思うけれど、どうだろうか。


ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』上下巻、飛田茂雄訳、早川書房、2016年。
Joseph Heller, Catch-22. 1961.

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