ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』(2000)

 19世紀小説の目的が読者を教育しつつ楽しませることにあったとすれば、ポストコロニアルの小説は読者に勉強させ、かつ喧嘩を売る。

 これは南アフリカの植民地化とアパルトヘイトからの解放を巡る物語だ。

 周縁化された人々の歴史は語られなかった歴史、語り損ねられた歴史、真実なるものを語るという営為のなかで抹消された歴史だから、それを取り返す言葉は物語る仕方そのものを問わなければならない。それは全く新しく純粋なものを打ち立てることとは違い、支配者の言語を、支配者のテクストを弄び、我が物顔で拝借しながら行われる。決して歴史の授業をしてくれる話ではない。しかし勉強しなければ読み解けない。

 こんな風に言うのは容易いが、『デイヴィッドの物語』が成し遂げているのはその困難な仕事だ。たとえこの小説が「わたしはもう縁を切ろうと思う。 この物語から手を引こうと思う。」という2行で終わるとしても。

 ゲリラの戦士、デイヴィッドと、その物語の筆記を託された「わたし」との敵対的とさえ言える緊張関係のなかで、デイヴィッド自身に起きたことと、彼の遠くない祖先に当たる民族の指導者ル・フレーにまつわる物語が、自らの信憑性に絶えず疑義を突きつけながら展開される。詳細に書こうと思ったけれど駄目だ。南アフリカ文学の研究者による50ページに及ぶ詳細な解説と訳者によるさらに親切なあとがきをもってしても、一読ではその複雑な歴史や人種的状況を飲み込むことができない。

 「コイサン」は先住民。本国との関わりを断たれたオランダ系植民者は自らを「アフリカーナ」と称し、アフリカーンス語を話す。当初は非白人すべてを、やがて白人、インド系、黒人のどれにも入らない人々を指した「カラード」、そして先住の黒人が最底辺に位置づけられ、「カフィール」と侮蔑的に呼ばれるが、反アパルトヘイト闘争のなかでは他の様々なバックグラウンドの人々がリクルートされ、賛同するものはみな自らを「ブラック」と呼んだという。そこで「名誉白人」なる不名誉を思い出す。

 楽に読み続けられはしない、かなり手強い、一方でアイロニカルな軽やかさが全編に満ちてもいる。一見私たちにやさしいそれもまたテクストの策略なのだろう。誰が、どこで、何故、何のために、というこれらが隠され続ける物語に身の置き所を見つけることは難しく、いつでも足下を掬われうる。


ゾーイ・ウィカム『デイヴィッドの物語』くぼたのぞみ訳、大月書店、2012年。

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