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他人がいてこその自分


自分とは何なのか。彼とは、彼女とは。
この世界って何なんだろう。

"どうして世界は限りなくて、深く思えば壊れてしまうんだろう?"


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以前、母との会話中に母のことをじっと見つめていたら、一瞬だけ母のことを認識できなくなった。
この人が私の母親なのか……?
何となく他人事のような気持ちだった。


最近はこの第三者的感覚にずっと悩まされている。
誰と話していてもどこにいても、その場にいる自分さえもを傍観している気になってしまう。

傍から見るとぼーっとしていると思われてるのだろうか。実際ぼーっとしているのだから返す言葉はないが、何も考えていないのではなく、肉体と精神が解離しているように感じているのだ。


自分という存在は、自分だけで認識することができない。とある有名な実験がある。毎日鏡に映る自分に向かって"お前は誰だ?"と聞くと精神が崩壊するというもの。それだけ人間の精神は脆いのだろう。


そこで、"他人がいてこその自分"という論に至る。彼が見ている私も私だし、彼女が見ている私も私。そうやって、他人によって自分とは何者なのかが形成されていく。


日頃常に、そのコミュニティ内での立ち振る舞い方を考えるというenfpの特質が私にもある。この人には聞き役に徹しよう、干渉しないでおこう、ノリ合わせとこう、バカなことして笑わせよう、と。そうやって立ち振る舞いを分けることで、自己の解離が起こるのだろう。決して悪いことではないと思う。それによってできたコミュニティは大事にしたいから。


ただ、どんな自分も出せる、受け入れてくれる、叱ってくれる、支えてくれる人がたった1人でもいれば。その人の前でだけは、どんな自分も自分だと思えるだろう。自己が解離せずに、ありのままでいられる。


付き合って1年が経った彼氏がいる。
1年という時間軸は、学生の恋愛としては長く、人生のパートナーとしては短いかも。


笑ったり、泣いたり、怒ったり、嫉妬したり。色んな感情を持って接しても、全て受け入れてくれることの心地よさを感じた1年だった。


対して、私は人の感情に共感する力が乏しい。
わかる、それな、を日頃から多用しているので、共感しているように見えるのだろうけど。何をされたら嫌か、うざいか、腹が立つかといったマイナスな感情に対しての共感性が。そこまで他人に興味がないせいで、何とも思わないことが多い。


そのせいでどれだけ人を傷つけ、怒らせ、悲しませたか。無論相手も傷つくけど、共感できない、分からない自分に対しても悔しくて堪らないのだ。


だから私は、何をされたら嫌か、うざいか、腹が立つかを学んでいこうと思う。他人を観察して、察して、確かめて、理解して、自分にない感性は、もはや理論的に取り入れていくしかないのだろう。

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