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仕事はある、けどないと言うひとがいる

最近仕事がないというひとがいる。
僕は某業界から仕事はあるけど、ひとが来ないというのをよく聞く。

某業界というのは土木関係だ。道路などの公共事業を請け負っているところからも聞くし、大型のトラック運転手などからも聞く。
仕事はあるのだ。ただ、仕事がないと言っているひとの思うような楽で稼げる仕事はないということだ。

フェミニストの女性が稼ぎ少ない発言を批判した時にも似た内容だったが、稼げる仕事がしんどいだけなのだ。しんどい仕事に対価を与えているに過ぎない。至極当たり前のことだ。

ただ、もっと稼ぐとなると頭を使う必要があり、そのひとはまた身体を動かすことがへることになるが、それはずっと先の話だ。いきなりそうはならない。

仕事がないならまずは身体を動かして稼ぐしかない。それを元手に資格を得るのか、頭を使って稼ぐモデルを作っていくのだ。仕事がないと言っているひとは身体を動かすことを怠って、そのステップを飛ばして自分が理想とする上の位に行こうとしている。そんなに都合のいいものではない。中にはできるひともいるかもしれないが、それはごく一部の才能のあるひとだろう。

みんなが憧れるようなお金持ちや経営者の多くはひとの何倍も働いたり、勉強したり、頑張っている時期が明確にある。今のキラキラ輝いているところだけを見て憧れるのは違うと思うのだ。

ダルビッシュ選手が言っていたのは「大谷選手が大谷選手でない時間を参考にすべきだ。」ということだ。

要するに野球をプレーする時間以外の時間も野球のことや野球をするための自分の身体のために行動している。それがあっての輝かしい結果であり、才能だけのものではない。
もちろん圧倒的才能に恵まれているとは思う。しかし、才能にかまけているわけではなく、おそらく体格に恵まれていなくても結果を出せるぐらいの圧倒的努力をしている。
圧倒的才能のあるものが、圧倒的努力を圧倒的に積み重ねている結果もたらされた歴史的記録なのだ。

大きく光り輝く部分だけでなく、そのために必要な大きな土台になる部分があるということを忘れてはいけない。規模は違うが一般人でもそこは同じなのだ。

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