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メンタルヘルスは自分次第?!

武術研究家のモノノフです。

自分の投稿のダッシュボードを見ていると、スキをされている確率が、メンタルヘルスと現代社会の闇のあたりが高いという結果に驚いています。自分といしては本題の武術をどうにかしたいのですが、社会が求めていない。読んだひともそんなにスキしていないという悲惨な結果に。すごくピンポイントの人を狙っているものなぁ。それよりは一般的な話題の方がいいのかと思い出しています。武術の話は続けるとして、社会が求めている話題についても積極的に投稿していきたいと思います。

さて、以外に好評なのがメンタルヘルスで僕自身びっくりしている。武術において非常に大きいウエイトを占めているので、僕自身研究したし、体感なども混ぜてお話させていただいている。あくまで、僕の主観体感であることを踏まえて読んでほしい。

僕の世界観(モノノフ世界観、なんかアーティストっぽい?!)では、肉体と精神体が存在している。肉体は文字通り肉体で、今あるそこのものだ。精神体の場所はかなりいい加減なもので、思ったらそこになる。肉体を現実、精神体を理想と置き換えてもいいかもしれないみたいな話は「心が楽になる話」という以前の投稿でもした通りだ。

肉体も精神体も安定を求めていて、それはお互いが一致することで、それを武術の世界では「統一体」と言って、力を発揮するのにいい状態となる。

さて、メンタルが病んでいるひとはどういったことが起きているのだろうか。あくまでモノノフ世界観で話をすると、精神体がかなりあらぬところにいる。少なくとも今そこにある肉体に精神体は存在していない。これがずっと違うところにあって距離が遠いと、そこで安定したいなって思います。仕方ないので違う精神体を作ったりします。それが統合失調症(昔でいうところの精神分裂病)だと考えています。うつは肉体の位置から離れている状態。躁うつは精神体がフラフラしていて、精神体がたまに肉体のあたりも通ったり、離れたりしている状態と考えている。

僕は精神体が一般的な幽霊の正体と考えている。精神エネルギーが物質的な身体を持たずに浮遊している状態だと考えている。肉体がある次元は素粒子で示されるような今認識している次元で、精神体があるのは素粒子と素粒子の間の部分。素領域というところがあると言われているのだが、その部分だと考えている。
それが視えるというひとが幽霊の視えるひとだと僕は思っている。ちなみに僕は視えない。この素領域のエネルギーを感じる力を霊感とか第六感とか第七感とか言ったりすると思う。第六感は磁力を感じる感覚ではないかという説もあるので、第七感まで書いた。興味のあるひとは調べてみてほしい。ちなみにノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹先生は晩年、素領域の分野を研究しておられたとされている。

まず、メンタルを病んでいるひとは肉体と精神体というものが存在していることを自覚してほしい。最初にそれがないとどうしようもない。そして、今の自分の肉体のある位置を分析してほしい。自分のしたいことはなんなのか、自分の良心を押し殺すようなことはしていないか、自分の見た目はどうなのか、などだ。

肉体の居心地が悪いから精神体が離れていき安定せず、イライラするのだ。ちなみに「統一体」の状態出ないと、肉体は不調を示し、ひどくなると病気になる。精神体はイライラし、精神疾患を患う。

基本的に精神疾患を患うひとは真面目なひとだ。僕はいい加減なひとより真面目なひとが好きなので、仕事でも周りには真面目なひとが多い。真面目なひとには大きい欠点がある。それは「視野の狭さ」だ。こうしないといけない。こうすべきだという価値観が固定されているひとが多い。正直、僕も自分のこれで悩んだし、病院に行っていないから診断が下っていないだけで、精神疾患の部類に入るだろうという時期があった。イライラして眠ることができず、それによってまたイライラするという悪循環なんか通常運転で、どうでもいいひとの些細な行動にもイラついていた。今ならマスクしていないひとを傷つけていたかもしれない。

自分の位置の分析をしたらそれはどうにかできることかできないことかで分類するのだ。例えば、仕事が今の自分に向いていないなら辞めるなり、次を探すなりするべきだ。今の仕事が嫌でもいつでも「いつでも辞めてやる!」とか「いつでも辞めいいんだ!」と思えるだけで、グッと心が楽になる。この嫌な場所を肉体が離れていいとなると、嫌なところを避けていた精神体に肉体が近づく形になるためだと僕は考えている。

では、どうにもならないものはどうするのか、それの答えは至ってシンプルだ。

「諦める」

のだ。どうにもならないことを考えても仕方がない。時間の無駄だ。僕なら自分の顔が大きいこと、頭身バランスの悪いことがコンプレックスだが、それは今更どうにもならない。悩んでも仕方のないことだ。それならネタにして笑いの一つでも起きたら儲けもんだ。
顔がデカイことをイジられたら「そんなことあるかい!」と言いながら、自分の顔をペタペタ触る。しばらくしてあれっと気がついたような顔をして「ほんまや!」というだけでひと笑いである。そこでイジられたくないとかいう自分のプライドなどはいらない。本当にいらない。
ここで言いたいことはどうにもならないことなど、どうでもいいことであり、気にしても仕方がないのだ。これは見た目について起きることが多い。見た目がいい方がいいのはわかっている。しかし、才能(もって生まれたもの)の要素が大きく、今更どうにもならないことが多い。ただ、デブに関しては自分次第だ。僕のダイエット企画の投稿でも読んでほしい。ブスは仕方ないがデブは自己責任であることが多い。しかし、痩せやすいひと、太りやすいひといるだろう。当然だ!

ひとは平等ではない!

のだ。
そのほかに苦しむ内容として、自分の能力以上のものを望むというものがある。例えば、頭がそれほど良くないのに医者になりたいみたいなことだ。ちなみに、IQで学力が決まるわけではないが、IQは遺伝子の要素が大きいことが論文レベルでわかっている。頭の良し悪しは才能の要素が大きいということだ。自分の能力以上のものを求めるから頑張ったり、負けず嫌いだから頑張るということもあるだろう。それ自体は否定しない。しかし、「足るを知る」ということもあるのだ。

精神疾患を患ってまでやる仕事なんてない

のだ。例えに出したので、医学部受験について少しお話しよう。以前、某大学医学部で縁故とか点数に下駄を履かせたみたいな話があった。その時に医学部受験を考えている医学部を目指しているひとが取材を受けてこぞって「卑怯だ」と罵っていた。僕から言わせれば、ここで「卑怯だ」とか言って何浪もしているようなひとは医者になるべきではない。そもそも医者になる器ではないのだ。
医者になるための勉強は尋常ではない。そもそも下駄を履かせようが履かせまいが、うかるひとはうかるし、落ちるひとは落ちるのだ。そんなものを跳ね返すぐらい優秀なひとに医者になってほしいのであって、グダグダ文句を言っているひとは医者になる資格がない。じゃあ、ライン上でどっちにも転びそうなひとはどうなのかというと、IQは遺伝子の要素が大きいことと、家が医者で小さい頃から比較的医学に近い環境にあった子供と、そうでない子供ではどちらの方が医者に向いている可能性が高いだろうか。あくまで、可能性で考えてほしい。僕は絶対に医者の家で育った方だと思う。医者の中に「商売人の医者」と「医療人の医者」といるのだが、「商売人の医者」は十中八九は親が医療に携わっていない。これも全部ではない。あくまで確率論だ。医療に携わっている身としては結構感じている。
頭脳的に優秀であることと、精神的に優秀であることのどちらが医者としての資質があるのだろうか。僕は完全に頭脳の方だと思っている。そもそも精神的な部分は試験などで一般化できないし、精神的に優れているひとは他人のことを「卑怯だ」と罵ったりしない。

話が逸れてしまったが、もしこれを読んでいる心の病んでいるかたがおられたら言いたいのは、あなたが病んでまでしないといけないことなどないということだ。それはあなたが休むことによって他の誰かが犠牲になったとしてもだ。メンタルがやられるひとは往々にして真面目で優しいのだ。自分を犠牲にしてでも他人に迷惑をかけたくないとか、これを休んだら他人に迷惑がかかるとか真っ当な価値観や考えをもっているひとがほとんどなので僕は好きなのだ。
ただ、自分の心を患うまではしなくていいと僕は思う。それは自分の精神体が肉体よりかなり離れた位置にいる。精神体もそんなしんどい肉体に帰ってきたくはない。だから、ドンドン離れてしんどくなっているのだ。「統一体」であれば休みなどいらないぐらいだ。

肉体に関しては自分の生きたい環境を作る。精神体に関しては、ちゃんと自分を分析して自分の位置を知り、自分のしたいことを見つけるべきだ。自分のしたいことがわからないひとはいろいろなひとに会うことから始めるべきだと僕は思う。これは本当は学生の頃にしておいて、自分の方向性をある程度決めておくのが有効だ。それは状況に応じて変わっても構わない。方向性を決めることが大事なのだ。

これは大人になってからのことだが、仕事を変わるのだって怖いとか、どこにいっていいのかわからないとかあるだろう。しかし、それは当然だ。そのまま代わり映えのしない毎日を進むのか、リスクを負ってでも変化する毎日に行くのかの違いだ。今変わらないと誰も変えてくれないことだけは保証する。気持ちはわからなくはないが、みんなリスクを避け過ぎだ。自分の可能性を光らせるためには時にリスクを負ったチャレンジが必要なのだ。

それにもっというと、仕事を変えることや変わろうとする時に真面目に生きていたら、ものによるがリスクはそれほど追わないことが多い。なぜかというと真面目に仕事をしていたら他のひとが声をかけてくれるからだ。「うちにこいよ」とか「ここを任せたい」とか「一緒に独立しないか」とかだ。こういう声がかかっていないひとは自分の生き方に問題があると思う。一度分析し直した方がいい。

さて、長々と書いてきたが、ポイントは大きく3つ

・自分を分析する
・自分のしたいことを見つける
・自分の存在したい場所を作る

これだ。
ここで大事なことは全部自分がすることであり、他人に任せるものではないということだ。自分を分析し、自分の精神体の存在したい場所を知り、その場所に自分の肉体を置くということだ。どれも自分次第だ。そのことに気がついているかいないかだけなのだ。

完全に置くことが難しいことや、途中経過ということもある。ただ、自分の生きたい方向を明確にし、そこに自分が向かっている、自分という可能性に挑戦しているというスタンスの時にひとは心を病んだりはしない。なぜなら自分という肉体が理想としている精神体に向かっているからだ。理想としている精神体に向かっているところだという自覚があれば、途中経過でも十分「統一体」になれる。かなりの力を発揮できると僕は思う。

モノノフ




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