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お寺をもたない僧侶の暮らし方

 お寺をもたないお坊さんを「マンション坊主」と呼んだりするらしい。地方では住職不在のお寺が増える一方で、都市では志を有しながらも寺院を構えることがままならないお坊さんたちがいる。檀家が少なく「派遣僧侶」を生活の糧にしていることが多い。マンション坊主などと言われると怪しげに聞こえるが、玉石混交、なかにはこんなお坊さんもいたりする。どちらかというと、賞賛を込めて「インディーズ坊主」と呼んでみたい気がしている。
 今回インタビューさせてもらったのは、自宅の一室をお寺とする真言宗宝寿院の僧侶・山本栄光さん。

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聞き手=朝山実
写真©山本倫子
(モノクロ撮影は朝山実)


「きょうは午前中は、知り合いの葬儀屋さんに頼まれてご葬儀に行っていました」

 この日、山本さんとは新大阪駅近くのホテルで待ち合わせ、喫茶店でインタビューを行った。お葬式は通夜を省いた「一日葬」。簡略化した葬儀は都市圏で一般化し、山本さんもそうした場に呼ばれる機会が多いという。

「喪主さんは故人の甥っ子さんだったみたいで、最初は仕方なくというふうな雰囲気だったんですけど、火葬場では『ありがとうございました』と声を震わせておられたので、何か響くものはあったんでしょうね」

 こうした場合、喪主さんとお坊さんは、お葬式の場が初対面となる。田舎のお寺のように「檀家」「檀那寺」の関係が築かれているわけではない。いわば一期一会。それだけに、当初はソンなクジをひいたと不承不承に見えていた喪主さんから、きちんとした態度でお礼の言葉をもらえたときは、「ヨシ!」と励みになるという。御経が結び縁というのだろうか。

「もちろんガッツポーズをつくるわけじゃないですが、言葉が伝わったかなぁという喜びはあります」

 山本栄光さんは、お寺の家に生まれたわけではない。高校を卒業後、飲食業や霊柩車の運転手などを経て、思うところがあり真言宗の僧侶となったという。
 取材で出会い、数年前から父の命日に御経をあげてもらうようになった。わたし自身は仏教に対する信心があるわけでもないのだけれど、山本さんの物腰の柔らかさと、聞かせてもらった御経がよかったからだ。気持ちが落ち着くというか、ライブを見に行く感覚に近い。お参りしていただくたび「信心はないんだけど」とそっけないわたしに、山本さんはこう言うのだ。

「信心はあろうがなかろうが、生きていることじたいが修行であって、何より自分がこうして生きているということを疑問に思う。それはもう信心に通じるんですよ。では、どうしていったらいいのかというのを探っていくのが、仏教の修行なんです」

 言いきるときの山本さんは、僧侶の顔というよりも、村おこし青年団のお兄ちゃんのような笑顔で、「なんか、うまいこと言うなぁ」と感心する。

 山本さんは修行を積んで僧侶として本山から承認されたお坊さんだが、いまはまだ寺院をもっていない。知り合ったのは5年前。わたしが父の葬儀の際に「自作の戒名」をつけ、そのため檀家だったお寺の住職から「ひとのビジネスに手を出すな」と激怒されるという出来事があり、「仏教って何?」と関心をもちはじめた頃である。

 前職がご遺体搬送の運転手だったことに興味をもち、師とされていたお坊さんと建設中だった寺院を見せてもらったところ、外観は建築現場などでよく目にするプレハブ造り(ところが、中の仏像などはリッパというアンバラス)だったのが面白く、「どうして、お坊さんになられたのか?」インタビューさせてもらった。それが最初の出会いだった。


「あれ、リッパな仏壇ですね」

 喫茶店に向かい合わせになったときに、山本さんが感想を口にされたのは、このnoteで連載している「お母さんのベッドで仏壇を作った」という記事(👉ここ)についてだった。
 プレハブの寺院づくりから始められた山本さんことだから、「手作りの仏壇」をご覧になられて、けしからんと否定するはずはないと思っていたが、予想以上の高評価だった。

──そもそも仏壇って何のためにあるものなんですか?

「みなさん、お寺へお参りにいただくのがいいんですが、それが大変だという方のためにミニチュアをつくるようになったものです」

──え、代用品? では、仏壇の中に位牌を飾るというのは?

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