自分に、向き合うこと。
なんにも考えられない日々が続いていて。
更新されていく新しい情報たちは目の前でぐるぐるしているだけで頭には全く入ってこない。
未来のことは到底考えられず、今のことで精一杯だった。
ただただ生活することしかできない、楽しむことも、なにも、できなくて。
引き金が分からなかった。原因が、理由が、悩みが、なにも思い浮かばない。何もできず、理由も探し尽きて、疲れて、もうよく分からなかった。
もう3回目だけど、慣れることはない。
そしていつも突然で、いつも戸惑う。
過去にもう二度と感じたくないと思っていた気持ちは、そう思えば思うほど、不安になればなるほど、わざと嫌な予感に近づいていくように私を溺れさせていった。
怖かった。いつか終わるとわかっているのに。でもそのいつかはいつなのか。ゴールが見えない。
感覚が鈍って、自分が信じられない。
会話しているのに、相手の言葉がバラバラになっていく。理解する前に、床に落ちていく。
目を見ているのに、合っていない気がして。
人と話すのが怖くなった。表情が見えない電話はもっと。
誰にも話さないでいようと思ったけど、そんなに強くいられるはずもなく、中学からの友人に話を聞いてもらった。子供みたいにボロボロ泣いて、自分の言葉で必死に状況を説明した。ただ思うことをぐちゃぐちゃのまま言葉にした。
何か答えが欲しいとも思っていなかったし、自分勝手だけど、アドバイスも要らなかった。ただ頭を、心を整理するための時間を一緒にいて欲しかったのだと思う。
弱いなあ、弱くなったなあ、大人になるたびにそう思うようになった。考えることは元々好きだったけど、考える時間がさらに増えて、自分について考えてすぎていたのかもしれない。
昔は友人や兄弟だった比較対象が、今は過去の自分、今の自分、未来の自分になっていた。ああなりたいのに、こうなりたいのに、自分のせいでできてないのだと、自分次第という言葉を超ネガティブ思考で捉えていた気がする。
友人には頑張りすぎだよと言われたが、私にはそうは思えなかった。24年間、なるべく楽して、力を抜ける場面は全部抜いてきたつもりだった。そんな自分が、頑張りすぎているわけはなく、もっと他に悩む理由があるのだと、こんなに小さな頑張りで折れてしまう自分ではないと、信じたかった。
自分に大丈夫と言い聞かせることも多かった。普通に話せているし、笑えてる、大好きな音楽も楽しめている、大丈夫、普通だと。
ずいぶん前特別に憧れていた私が、自分に普通だと言い聞かせているなんて、なんだか悲しくもある。しかし、いつも通りでないことの怖さを、当たり前のことができなくなってしまうことへの不安を、過去に2度感じてからはもう、ただの普通ないつも通りの毎日を無くすことの方が耐えられなかった。
自分の弱さを受け入れられるまで、かなり時間がかかった。原因も分からないままだし、もう二度と味わいたくないとも思う。
恐らく、病院に行けば診断を受けて病名がついただろう。私の心の弱い部分に、名前がつけられる。なんとなく自分で調べていて分かる。
でも、名前が正式に正確につけられたとしても、変われるわけじゃなくて、むしろ重く捉えてすぎてしまう気がした。今行ったら余計に、弱くなってしまいそうだった。
今回の自分の判断が正しいかはまだわからない。もっといい方法があったかもしれないが、とりあえずはこのまま普通の、いつも通りの毎日を過ごしていきたい。もう、弱い自分に出会わないようにきちんとペースを守りながら。自分で自分を守りながら。
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