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大学生の私と、忘れられない授業の話

6年前、大学3年生だった頃。
私は単位の足りなさが目につく成績表と睨めっこしていた。単位を何回も計算し、どうにか卒業したいと考えて、モチベーションを保つ為に好きな先生が担当していた西アジアについての演習授業をとることにした。

迎えた新学期、初回授業の日。後輩ばかりの顔ぶれに居心地の悪さを感じながら、4、5人掛けの丸い机に私は座っていた。フロアマットの感触を足の裏で確かめつつ、先生が来るのを待っていた。

ようやく現れた先生は、シニカルなジョークをかましながら自己紹介をさっさと済ませると、おもむろに用紙を配り始めた。
そこにはあなたが西アジアについて知っていることは?とか、どんなイメージを持っている?とかいった質問が連なって書いてあった。普段あまり馴染みのない地域だろうから、まずはみんなが思っていることを書いて欲しいという。私たちは5分ほどでそれを書き、意見交換をすることになった。

白紙の紙を前にして、シャーペンを手に持つと、私は西アジアのことはほとんど知らないように思った。
イスラム教、豚肉が食べられない、砂漠とヒジャブ・・・。
イメージを追っていると、ふと、友人から聞いた話を思い出した。西アジアの国に渡った友人は、女性だからとヒジャブをかぶって過ごす必要があって、一緒にいた男性とは違った行動をしなければならなかったと言っていた。それを聞いてなんだか腑に落ちなかった自分を回想した。

それで私は、その用紙に、女性の権利が制限されている、といったようなことを書いた。なんならもう少しトゲトゲした言葉だったかもしれない。自分が友人の言っていたような生活をするのは嫌だと思っていたから。

大学生の私は人間関係をあんまり上手にやれていなかった。そんな独りよがりな自分が将来、誰かと結婚したり、家族になる想像が全くつかずにいた。家事も苦手で、一人暮らしが上手にできず、物で床が隠れた部屋で毎日を過ごしていた。
一方、仕送りをもらわず、奨学金を借りて、バイト生活をしていた私は、「自活していること」をそういうコンプレックスに対しての安心できる言い訳にして、プライドにもしていた。
それで「結婚するかなんてわからないし、卒業したらしっかり働いて、ちゃんと1人で身を立てて生きていかなきゃ」と思っていた。
そうでなきゃ、どうする?となんだか切迫した気持ちだった。だから、女である自分が、女だからという理由で行動が制限されたり、差別されることには敏感だった。

用紙が配られてから、5分が過ぎた。私たちは順番に自分が持っている西アジアについてのイメージを話すことになった。先生はそれにコメントしつつ、自身の研究について経験を交えて話してくれた。初めての授業特有の固い空気は少しずつほぐれていった。
私の番になって、「女性の権利が制限されている、自由が無いイメージがある」と口にした。
すると先生は、少し諦めたような、怒ったような感じで、そう思う人は多いねと言った。ほんのり緊張した空気が流れた教室で、先生は話を続ける。
そうやって、西アジアの女性がまるで幸せでないように考える人は多い。けれど、自分が現地に赴いて、出会ってきた女性はその文化と生活の中で、自分の居場所を持ち、幸せを感じて生きていた。そう話してくれたし、その姿を自分の目で見てきた。
もちろん、その価値観を窮屈に思う人にとっては、新しい居場所や在り方が開かれることは必要だけれど、西アジアの女性のみんながみんな、今の状態から抜け出したいとか、私たちの価値観に向かっていきたいと思っている訳ではないんだよ。先生はそう言った。

私ははじめ驚いていただけで、正直それらの言葉をすぐには飲み込めなかった。
でも先生が話し始めた、実際の現地での人々の様子や、どんな会話をしたかとか、そこでの暮らしの話に聞き入るうちに、なんとなく先生の言いたいことがわかったような気がした。
その場所で培われてきた文化の土壌の上に、その人たちの生活があって、人生があって、そうした営みの中で、生まれた個人がいて、その人の感覚がある。
それを外野の私たちが、自分達の価値観だけを定規にして、その暮らしが幸せとか不幸とか、そんなこと決めつけてはいけないんだと気づいた。

幸せは、自分自身にしか測れないものだ。
もちろん、教育も、職業の選択も、その人自身が望めば、チャンスがある、そんな状態が理想だと思う。ただ、その人自身の気持ちを無視して、誰かが勝手に自分の価値観でその人の幸せを測ってはいけない。
私は、自分が大事にしていたものは、他の人にとっても大事にしたいことだと思い込んでいた。そしてその一方的な価値観を信じきって、誰かに押し付けていたかもしれない。

私の心の目は、知識や経験を積むことでよく見える眼鏡をかけたようになる。それはこれまで見えなかった色々な世界を、鮮やかに見せてくれる。
けれど時として視界を歪ませていたり、色がついた世界を見せたりもする。私がひとつの価値観を正義と疑わずに振りかざそうとしたように、自分の目に見える世界は当たり前のように信じてしまうだろう。

私はきっとこれからも間違えるだろうし、誰かのことを傷つけもするだろう。
それでも、できるだけ透明でまっすぐな目を持っていたい。
そのために考え続けることをやめない。
素直に感じ、自分で見つけた正解を受け止めることができる自分でいたい。

誰かのことを否定したり、決めつけてしまいそうになる時、私はこの授業を思い出す。

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