謀殺(即席)

 考えようによっては、九州という所は不思議である。
 名族が多い。島津氏の本姓は惟宗で、初代の惟宗忠久が源頼朝によって薩摩守護に任ぜられたのが始まりであるし、豊後の大友も頼朝亡き後の合議制時代出の有力な御家人で、肝付氏に至っては祖は伴大納言とされている。中には有馬や龍造寺のように国人からなり上がった者もあるが、それは全体からするとごく一部でしかない。
 一方で、進取の気風もある。
 天文年間に、漂着した外国人によってもたらされた鉄砲をいち早く使いこなしたのは島津の加治木城攻めで、これは鉄砲が国産され手から四年後の事である。
 名族、名家というのは往々にして、自らの出自を根拠とした不確かな矜持から保守性を大きくする。それゆえに新しい物を進んで取り入れるという事には二の足を踏むものだが、島津の鉄砲、あるいは大友のフランキ砲(国崩し)、もっといえばキリスト教など、進取、というより新しもの好きともいえるほど、革新的な行動は多く、単純な貴族意識だけではない複雑な風土が、九州にはある。
 しかし、名族ならではのこだわりもある。
 例えば出自である。
 各々の出自は確実に古い。古いという事はそれだけ根ざした時間が長いという事であり、同時に新たに勃興した者たちを軽侮する傾向がある。
 例えば、関白である豊臣秀吉については、島津家中では、
 ―― 由来なき人物。
 といっている。秀吉は血筋も何もない、というのである。一方の島津は鎌倉以来の名族の家柄であるので、たかが百姓上がりに言われる筋合いはない、という。ここに名族の出自に対する矜持を前面に出している。
 これは島津での逸話であるが、恐らく九州の大名や国人は、それを表に出すかどうかはさておいても、大なり小なりその心情はあっても不思議ではない。
 この城井常陸介鎮房も、そのような気性の一人だったに違いない。
 常陸介は城井谷城で、一通の書状に全身を震わせていた。
「どういうことか」
 それだけである。だが、眼は血走って血管が浮き出、顔は紅潮し、今にも卒倒しそうなほどである。常陸介の眼前に座っている弥三郎朝房は、顔色を失っている。
「関白殿下は、それがしの此度の働きによって伊予への転封を。……」
「そのような事は分かっている。何故、そうせねばならんのだ、といっている」
「殿下の仕置でござりますので。……」
 弥三郎はそれしか言わなかったが、常陸介は関白の朱印状を床に叩きつけた。
「これは、嫌がらせであろう。我らが参陣せず、弥三郎だけにさせた当てつけに相違ない」
「恐らく、父上の仰せの通りでござりましょう。しかし、大勢はすでに決しております。ここで抗う事は何の意味もありませぬ」
「従え、というか。どこの馬の骨とも分からん猿面の男に」
「その猿面の男と言われた御方は、この日ノ本一の天下人でござります」
「だからなんだ。これを飲め、というか」
「ここは、曲げて承知くださりませ」
 弥三郎は床に額を叩いつけた。そして続けた。
「我らがいち早く関白殿下に下り、参じればこうはならなかったやもしれませぬ。されどそれはすでに詮無き事。ここは、ここは」
「伊予に行くのは譲るとしても、小倉色紙を渡さねばならんのか」
 触れることすら汚らわしい、とまで言いきった。
「しかし、それで家名が保たれるのであれば」
「その為にすべてを投げ捨てよ、というのか。それでお前は満足か」
 弥三郎は拳を固くした。
「それ見い、つまるところおぬしも得心しておらぬではないか。たかが百姓上がりの卑しい男に屈するものか」
 これ以上は堂々巡りになる、と思ったのか、朝房は何も言わず、根を下ろしたように動かない。
「では、いかがなさいますか。関白殿下相手に一戦及びますか」
 弥三郎の目もまた血走っている。怒り狂っている父をどう慰撫してよいのか、分からなくなっているのかもしれない。関白の軍勢は数十万ともある大軍である。故に事実上の主家であった島津でも歯が立たずに降伏することになった。関白の軍勢は、九州を、まるで伸びきった草を刈り取るように蹂躙した。それを目の当たりにしている朝房から見れば、眼前の父の怒りは如何に卑小に見えたであろう。事実、常陸介は
 ―― 一戦に及ぶ。
 と明言はしない。すれば、本拠である城井谷城が難攻不落でもいずれ落とされることが目に見えているからに他ならない。
 では、大人しく、関白の仕置に従うのか。それには不満が大きく、従う気はない。つまるところ、このままにしろ、という事である。
 余りに無茶、というほかない。だとすれば、関白の下知に従って戦えばよかった。そうせずに病気として参陣せず、申し訳程度に送りこんだ軍勢程度で、関白が言う事を聞いてくれるはずがない。むしろ、転封とはいえ加増されたのは関白なりの最大限の譲歩、ともいえる。
「それを足蹴にされますか」
 弥三郎の声は思いもよらず大きくなった。足蹴にすれば今度は無事で済まない。恐らく蹂躙されつくし、髪の一毛も消えて亡くなるであろう。そうなればこの豊後城井谷も小倉色紙もあったものではない。常陸介が何を守りたいのか、弥三郎は分かりかねていたであろう。
「足蹴にしてるのはあの猿面であろうが」
「それでも、関白殿下でござりまするぞ」
 こうなると最早堂々巡りである。常陸介は強引に打ち切った。
「関白に目通りして、この朱印状はお返しする」

 関白豊臣秀吉は小倉にいる。小倉城の築城の視察を毛利壱岐守勝信と共に行うためである。常陸介はその中に小倉に到着した。
「城井殿が」
 壱岐守は少し困惑したように関白を見た。恐らく仕置に対する不満であることがすぐに分かったであろう。
「殿下」
「吉成はこのまま縄張りの様子をみておれ。直に会う」
 関白の表情はいつも以上にあからめてある。が、それは恐らく憤怒によるものであろう。
 常陸介が先に待って平伏しているところで関白が上段に座り、一方の当事者である黒田官兵衛孝高も同席した。
「どうした、常陸介殿」
 あえて訊ねた。
「この度の戦勝のお祝いと、病気によって参陣できなんだお詫びに参りました」
「そうであったな。……、して、病の方はどうだ。よくなければいい薬師でもあててやるが」
「いえ、平癒いたしましてござりまする」
「それはめでたい。では、何用で参ったかな」
 常陸介は関白の前に朱印状を差しだすと、関白の眉がぴくり、とうごいた。
「これは」
「伊予国への加増の件でござりまするが、ありがたい事なれど、当方には重きに過ぎるところゆえ、これはお受けいたしかねまする」
「伊予はよいところであるぞ。しかも、加増だ。悪い話とは思えぬが」
「当方、城井谷は源頼朝公の頃より治めていた所でござりますので、人心についてもそこなる黒田殿にはとても掴めるとは思えませぬ」
 官兵衛は飄々とした様子で受け流しているようであった。
「官兵衛、言われとるなぁ」
 関白は笑っているが、その目は明らかに笑っておらず、凍てつく刃のように鋭い。一方の官兵衛も同じような目つきで、
「まあ、元々は播州の生でござりますので、よろしくお引き継ぎいただければ」
 と、口調こそ穏やかであるが、立派な拒絶といえる。常陸介もそれでたじろぐようであれば、そもそもこのような事をしないはずである。
「あくまで、黒田殿に譲れ、と」
「そうだ。それと、小倉色紙もな」
 関白は条件を一厘一毛たりとも譲らない。
「お尋ねいたしまするが、何故我が家宝をお求めになりまするのか」
「茶室に置くためよ」
 常陸介は呆気にとられたのか、表情が固まっている。たかが茶室に置くために家宝をよこせ、と強請られている。それも、百姓上がりのこそ泥に。
「どうした、それが答えだが」
 明らかに関白は常陸介を挑発している。話は終わった、と関白は腰を上げると、壱岐守の所に戻っていった。

 常陸介は城井谷に戻る途上、何度も叫んだ。
 自分は鎌倉以来の名族で、九州の奉行であった。一方のあの男はどこの馬の骨とも分からぬ卑民であり、すこし時代の流れに乗っただけの、運だけで渡り歩いてきたような男である。それがいまや朝廷を汚し、帝にその汚い猿面を見せているか、と思うと射殺してやりたい気分になる。
「殿」
 馬を曳いている小姓が振り向いた。
「あのような矮躯が天下を治めるのだ、世も末だ」
 蝉の声が、少ない。
 城井谷城に戻って暫くしてから、小倉城を築城していた毛利壱岐守が面会を求めて城井谷城に来た。毛利壱岐守は名を勝信といい、関白秀吉の子飼の武将として武名が知られている。ちなみにこの壱岐守の一子が、のち大坂の役で真田左衛門佐幸村と双璧をなした毛利豊前守勝永である。
「何用で来たか」
 常陸介が怪しむよう見せたのは当然で、多分に関白の命を受けて接収しに来た、と考えるのが賢明といえるからである。
 だが、壱岐守は意外な事を口にした。
 ―― 私が口添えをして、本領安堵についてとりなすよう働きかけるので、その証として一度城を出てはどうか。
 という。
「何ゆえ、そのような事を仰せられるか」
 壱岐守からすれば、このように味方をすれば、関白に睨まれるのは自明で、言うなれば壱岐守は自ら厄介事を引き受けようとしている。
「それは御身の為によろしからざることでは」
 と、常陸介が諭したのも自然である。だが壱岐守はこういう。
「御身の大切さをおもえばこそ」
「それは、どういうことでござろうか」
「艾蓬の射法」
 壱岐守はこれだけを言った。
 艾蓬の射法とは、神功皇后が三韓征伐で用いた吉凶の占いや、邪気を払い、また戦勝祈願に用いられる弓術儀式で、代々一子相伝の掟が守られて、当主以外は執行することができなかった。その相伝が、豊前宇都宮氏、つまり城井氏に受け継がれているのである。
「もしここで、貴殿があくまで固執し、もし関白殿下の逆鱗に触れてしまえば、間違いなく一族郎党皆殺しになるであろう、小倉色紙は関白殿下がお持ちあそばされるのでそれはともかく、この射法は途絶えてしまいまする。古の射法を絶やすのはあまりに勿体ない話かと」
「それは、関白殿下がそう言われたるか」
「いや、これはそれがしの一存にて申している事。されば、ここは一旦苦汁をお飲みあれ」
「とりなして、本領が安堵できまするか」
「それは、確約は出来かねる。……、されど、これ以外に方法はござらぬ」
 壱岐守が後に引かぬ事は様子でわかる。常陸介は、覚悟を決めたようである。
「では、よしなにお願いつかまつる」
 常陸介ら城井一族が城井谷城を出たのはそれから間もなくで、壱岐守はそれを受けて関白の元に嘆願に出た。
 だが、関白の答えは変わらなかった。
「あくまで伊予への加増転封、小倉色紙の引き渡し」
 が条件であった。
 常陸介は、壱岐守を責めるような事はせず、むしろとりなしてくれた事への感謝を壱岐守に述べた。
「ここまで来た以上、最早決裂するしかあるまい」
「常陸介殿、短慮はやめなされ」
「父祖伝来、数百年も治めた土地を余所者に取られるのは、身が裂かれる思いでござる」
「されど、すでに黒田殿が中津に城を築き始めている以上、城を奪うのは危険窮まりまするぞ」
 壱岐守は何とか制止しようと説得を試みた。が、常陸介は受け付けない。
「これまでのご厚意、忝く存ずる。されど、これ以上御辺に迷惑をかけるわけにはいきませぬ」
 壱岐守は小倉に失意の帰途となったであろうことは想像に難くない。
 城井谷周辺に常陸介らが潜伏をして一月ほど経った頃である。
 佐々陸奥守成政が治めていた肥後の国人が、肥後の仕置に対する不満を爆発させ一揆が起こった。当然ながら関白はこれを鎮圧するよう近隣の諸将に命じることになる。
 そしてその中に、中津城の黒田官兵衛親子が含まれたのである。
 これは、常陸介らにとって望外の僥倖といえよう。手薄になった豊前で、常陸介は城を奪還した。天正十五年十月である。
 城井谷城は峻険な築城(ついき)というところに谷なって、しかも天然の巨岩によって表門と裏門をなし、とくに表門については三丁の弓があれば防ぐことができたので、三丁弓の岩、と言われるほどであった。
 要するに攻めるに難い城である。
 一方の黒田軍は、官兵衛の嫡男である吉兵衛長政が先陣となって常陸介の家臣で爪田讃岐守が治める、城井谷より北方にある広幡城を攻め落とし、そこを拠点とした。常陸介も城井谷城から北上させつつ、岩丸山の小山田城に陣を張った。
 吉兵衛は、本来進むべきであった谷側ではなく尾根伝いに軍を進めた。これには早くこれを鎮圧して肥後に向かいたい、という焦りによるものであったかと思われる。
 これが吉兵衛の最大の危機を向かえた。
 常陸介は周辺の民や国人衆をつかって尾根周辺に潜ませ、奇襲を仕掛けたのである。山道になれていない黒田軍はこれで大混乱に陥り、先陣の大野小弁正重、勝間田彦六左衛門重晴をはじめ、数百もの兵が討ち取られる、という大敗北を喫した。
 力押しによる敗北によって、総大将である官兵衛はまず城井谷周辺に付け城を設けて周囲との連絡を絶たせると、そのまま持久戦に持ち込んだ。元来籠城戦というのは、援軍が確約されて発揮する戦い方であるが、城井谷のようにそもそも孤立無援の戦いであれば、落ちるのは時間の問題であった。
 城井谷城が落ちたのは十二月の下旬で、講和の条件として秀吉に黒田家臣になって、本領安堵を確約させることと、鶴姫を人質にし差しだすことであったが、常陸介はこれをのんだ。

 だが、吉兵衛はこれに疑問を持っている。
「あれで、城井の連中が納得するはずがない」
 と、官兵衛に言上した。官兵衛は面白くなさそうな顔をした。
「そんな事は分かっている」
「では、何故受け入れを。……」
「あれ以上やっても互いに益はない。それに、戦は力押しだけで勝てるほど甘くない」
 この冷徹な策士の思考を、吉兵衛は分かりかねているようである。
「戦で大事なことはなんだ」
「勝つことでござりまする」
「では、勝つ、とはなんだ」
「勝つ」
「つまりは、何を持って勝つ、というのだ」
 吉兵衛は少し考えて、
「大将の首を取ることで、ござりまするか」
「それが分かっているなら、やり様はいくらでもあるはずだ」
「ですが、向こうは名うての。……」
「やり様は、いくらでも、あるはずだ」
 官兵衛は噛み砕くようにしていった。その意味を、吉兵衛は理解した。
 吉兵衛は、厚誼を深めたい、という名目で常陸介を中津城へ案内した。
「罠だ」
 という弥三郎の言葉を聞きつつも、常陸介は、
「分からいで行くやつがおるか」
 と言い置いて中津城に向かった。供回りは五十人ほどで、ちょっとした手勢である。
 吉兵衛はまず合元寺に家臣ともども常陸介を留め置き、家臣を合元寺で待たせる恰好を取った。常陸介もこれには逆らえず、小姓数人だけで城に上った。
「酒宴をもうけました」
 吉兵衛はにこやかに振る舞っていた。常陸介はそれに踊らされる様子ではなく、明らかに警戒しつつ下座に座ろうとした。ところが吉兵衛は、
「この度はそれがしが招いたのだから、上座に是非」
 と、譲らない。数度やり取りをして、結局常陸介が上座に収まると、吉兵衛は酒肴を持ってこさせた。
「酒は灘から取り寄せました。お口に合うかどうか」
 一献傾けると、常陸介は鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、そのまま口を湿らせた。
「なるほど」
 と、常陸介は灘の酒を気に入ったようで、すこし喉に通した。暫くして常陸介の体が大きく揺れ始めると、昏倒した。
「殿!!」
 小姓が叫ぶのへ、控えていた家臣が一斉に出てくるや、常陸介を始め全員が殺された。常陸介の手が刀の柄にかかっていた。
 同じ頃、合元寺でも城井家臣たちが全員暗殺され、合元の壁は血で染まっていた。さらに常陸介の父である同じ常陸介の長房は城井谷城で討死、鶴姫は磔にされ、弥三郎は肥後国人一揆の騒ぎに紛れるように、これも黒田家臣によって暗殺された。ただ、弥三郎の妻だけは辛うじて生き延びて長男を産み、その血筋が越前に残っている。

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