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小説/女優の子 四


水 二


私が遠い将来化石になったとき、一体誰が私を正しく復元してくれるのですか。耳の薄さや唇の形は忠実ですか。

あたらしい生活、という感覚はありませんでした。以前の生活というものがそもそも記憶に残っていなかったからです。
わたくしはただ、さらの自分にあらゆる生活の全般を学ばせるようなかたちで日々暮らしておりました。
「気温湿度も一定に保たれていますし、夜になって冷え込むことも雨に降られる心配もありません。なんせ水の底ですから」
此処へ来たとき、幼女はわたくしへそのように説明しました。
水の底、というだけあって、雨が降らぬというものの、この場所そのものが穏やかな慈雨じうのようでした。
フォレストグリーン。
その光の慈しみが、眩しかったのです。


“おお 愛しき木陰 私の優しいプラタナスの葉のかげ
光は踊り、陰は誘う 
私はそのもとで安らかに眠るだろう
平安は二度と脅かされることはないだろう
たとえ嵐が襲い来ようとも 閃くいかづちさえも 
決してこの場所までは届くまい”


心のままに林を歩んでいると、いつ聴いたのかそんな歌の記憶などが蘇ることがあります。曲目はさっぱり思い出せないのです。けれど、そのメロディーと歌詞はしっかりと心に刻まれているのでした。
マーマレードの湯気を浴びながら朝食用のコンフィチュールをこしらえる仕事も、パンを作る際は次回の発酵のために少量のパン種を残しておく知恵も学びました。毎日飲む珈琲に添える粒の大きい琥珀色の砂糖は、色合いがまだらで天然石のようです。
身を包むブラウスは滑らかなシルク、絵画のようなスカートはくすんだ緑色で、ふっかりと厚みと光沢のある上質なその布地は蛾を思い起こさせました。
きれい。
直感的にそう思いました。
踊るように回ったら、なめらかに動きました。程よいボリュームの襞が拡がりました。


あたらしい生活のすべてはわたくしにとって心地好く、退屈を感じることがありません。心の満たされている人間に退屈は訪れないものです。ですから、この林を散策するのは満たされた心から生じる純粋な興味と欲求からです。歩いても歩いても、いつまでも浄い世界です。
ときに歩き過ぎて林の外れにまで来てしまうことがあります。
そこには泉があることを、わたくしは知っています。循環もなく、きわまで水で満ちていますから、泉というより淵と呼ぶべきものなのかも知れません。ほとんどが白くて浄い世界のなかで、唯一ここの水だけが不透明で、底が覗けないのです。
いつか不思議に思って、わたくしは屈み込んで掌で水を掬おうとしたことがあります。
「それは死んだ水ですよ」
いつの間にかかたわらに来た幼女に止められてしまいました。彼女の着物の紅は緑と白ばかりのこの世界で、異様に目立ちます。
「でも、特に何も──」
「死んだ水です」
眉ひとつ動かさずに淡々と述べるので、わたくしは手を止めました。
「触れる事は許されません」
それ以来、わたくしは泉が視界に見えると引き返すのです。彼女のげんに、わたくしはどうしても逆らえません。
この世界のことや、衣装や生活の術を与えてくれたのは彼女でしたが、わたくしが此処に慣れるにつれ、あまり姿を見かけなくなりました。そのうちまたひょっこり来てくれるやも知れません。

わたくしは常に満たされておりました。どうしてこんなに、と思うほどに。以前の世界ではどうしてあんなに、と思うほどに。ただ、心の片隅で気掛かりなのです。わたくしが死んだなら、わたくしの身体はどうなるのだろうかと。美しく残って欲しいものだと思うのです。死んだあと腐敗するのは美しくないでしょう。腐敗も越えてかたちがすっかり消滅してしまったなら、再現も難しいでしょう。
それとも、ひょっとするとすでに今のこの状態が“若くして死んだ”状態なのかしら。そうだとしたら、理想なのだけれど。

今日も目覚めます。霧が肌を潤します。
一昨日おとつい作り溜めたコンフィチュールは味が馴染んで、優しくまろやかな甘みが口の中でとろけます。
身だしなみを整えて、きっと今日もくるくると踊るように慈しみに満ちた林を散策するでしょう。

快さに満ち足りながらも、わたくしは自分の今のこの状況が一体どういうものなのか、実のところ測りかねておりました。


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