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小説 金魚邸の娘 三

【あらすじ】「あなたが残るなら、果穂子は百年も、千年も、永遠にまでいきませう──」 司書として働く六花はある日、図書館の大机の裏にびっしり日記が書いてあるのを発見する。その日記の秘密を紐解くとき、ある少女の一生と、命を賭けた美しい仕掛けが動き出す。 

2025年 初夏  六花 2 


本は、総てだった。
私の総て。世界の総て。


 朝からだらだらと降りつづけている雨が上がりつつある。
六花は自室の隅の壁に背中をくっつけて、才能あふれる変人の書いた小説を読んでいた。座布団を敷かない畳に直座りなので心地が悪い。

昔から読書をしていると他のことは何も構わなくなってしまうきらいがある。ぐん、と強い眠気に引き込まれるのと同じような感覚で六花は簡単に本の中の世界に入って行くことができた。眠っているときは眠りの世界しかないのと同じで、そのとき六花の周りには本の世界しかない。そうして何んにも見えなくなってしまうのだ。
本は、能動的だから良い。自分の想像力如何で世界をどこまでも広く豊かにできる。しかも自分のペースで読み進められるので存分に考えを巡らせられる。
考える、という行為は本当はとても贅沢なことなのだと思う。
難しい事は考えたくないとか、勉強するのが辛いとか、そんな言葉をよく耳にするし、自分でもそう思ったりするのだけれど、それでも。そういう違いが動物と人間を隔てている。
だから、考える時間をたっぷり持てて、ひとつしかない現実の他に頭の中の妄想的な世界を持つことをも許される学生は、本来はとても贅沢な立場にいると思う。
ただ、彼らの多くは幼くて、学生でなくなった時にその贅沢な特権に気づいたり、考える代わりに他のことに時間を用いてしまったりしがちだけれど。

ページを捲る。本の中の恍惚を感じるほどの世界の濃密感に、六花は途方に暮れる。このような世界を自分で創り出し、文章に起こす事が出来たのならどんなに素晴らしいかと思う。文学的にさかしい少女がうっかりその世界を目指してしまうのも無理からぬことなのかもしれない。本というのは文字数は確かに膨大だが、紙の束にまとめてしまうとほんの数センチだ。その中に、世界密度が詰まっている。
本はこんなに叫んでいるのに。こんなに訴えているのに。動き出さないのが却って不思議なくらいだと思う。
特に好きなのは、日本文学。海外小説やハイファンタジーにはそれほど惹かれない。思うに六花は、日本語の文章表現の美しさや現実を模した世界観が好きなのだ。何が起こってもおかしくないファンタジーの世界設定と違って、現実世界を舞台にした物語には縛りがある。その縛りのある世界──本来何かが起こってはいけない世界──に妖しい歪みを垣間見るとき六花の胸は高まるのだ。空想世界の醍醐味である。
本当の現実は、駄目だ。現実は速すぎる。
六花には時間が足らない。物事を飲み込むのに、普通の人の数倍時間が掛かる。今の仕事だって、もう慣れましたとは言い難い。時間をたっぷり溜め込んで置ける場所があったなら迷わず飛び込んで行くのにと、幾度となく思う。
実年齢より幼い部分があることは、自覚している。情緒の発達に斑があるのだ。口下手のルーツは父からである。その元々の性質に加えて、拍車をかけたのは幼年期の環境だ。父もまた、文学的な人だった。父は本だけは惜しげも無く買い与えてくれる人で、それも手伝ってか見る間に六花は読書の魅力に呑み込まれていった。

読書を終えてふと時計を見ると、すでに午後になっていた。昼食もまだ食べていない。休日はいつもこんな調子になってしまう。六花は固まった体をほぐすように腕を回し、それからだらしなく寝転んだ。
本の知識に長けた代わりに、未だに未発達なのは他者との自然な関わり合いだ。端的に言えば内弁慶という事になるのだろうか、慣れない人物と対峙する場面に直面すると動作さえぎこちなくなる。
孤独は聡明さに比例して深くなると、誰かが本の中で言っていたのを思い出す。六花が聡明かというとそれは分からない。けれど、人の人生や心理について追求すればするほど、他人と関わり合うことがいかに繊細なバランスで成り立っているのかを思い知るのは確かで、どうしても誰かの懐へは入っていけないのだった。比較的自然に関わり合えるのは老人か、子供くらいか。
──子供。
結局、昨日の少女の名前は訊けず仕舞いだった。あの子の年齢すら知らない。
ただあの後彼女を家まで送ったときにネームプレートに『HARADA』と掲げられていたのを覚えている。最後にぴょこっと小さくお辞儀をした少女は、アパートのドアを開けて黄色い電気の灯る部屋の中へと消えていった。賑やかなテレビの音が聞こえ、ちらっと見えた玄関には子供の靴が乱雑に散らばっていた。少女はただいまも言わず、母親の声も聞こえなかった。
やけにあの子が気になっていた。自分と似た性質を表す少女。その家庭環境。そして一緒に見たあの、大机の。
あそこに書かれていたのは確かに文字だった。図書館の閲覧用大机の裏にびっしりと。あれは何だったのか。誰が何の目的で書いたのだろう。
まるで物語の中に出て来る『妖しい歪み』だ。月明かりの下、少女と二人並んで見上げる机の裏の文字群はまるで小説のワンシーンそのものだった。彼女と一緒にあれを見たせいで何とは無しに秘密を共有した気分になり、あの子とあの文字を余計気になるものにさせていた。
机の裏の謎文章。改めて机の下に潜ってその内容を確認しないと何とも言えない。けれど、誰かの単なるいたずらとも思えない。あんな地味で根気の要るいたずらなどない。そもそも誰にも気付かれないだろう。あんな所にある文字なんか、机の下に潜って尚且つ仰向けにならないと──。
──書くときもあの姿勢だった?
がばりと畳から起き上がった。あのびっしり書き込まれた緻密な文字を? それは不可能ではないだろうか。あの体勢では確実に文字が震える。真っ直ぐ書くことも不可能だろう。何しろ寝ても座っても腕と机の距離が中途半端なのだ。加えて大机があるのは大閲覧室の中央である。人の目に付かない時間帯など無い。
だとしたら、書いたのは図書館利用者ではない。職員も──六花自身が職員だから分かるのだが、それも無理だと思われる。
それならば。
──そうか。
机の方が逆さになっていれば可能なのか。もしくは立て掛けられていたかのどちらか。だとすれば、あの机は一定期間どこかに裏側が見える状態で置かれていた時期があったという事になる。あの文字はもしかすると相当昔に書かれたものなのかもしれない。充分にあり得る話だ。何せ施設自体が相当古く、元名家の邸宅を改装して使っているのだから。あの大机も今は滅多に見ないような珍しいデザインだし、当時から使っていた物だとしても不思議はない。
そうすると、あの文章は歴史資料という事になるのだろうか。






「一昨日はごめんね。あれから大丈夫だった? 」
開館前、新聞の差替え作業をしていると金木さんが近づいて来てそっと尋ねた。気にしてくれていたらしい。
「大丈夫でした。消しゴム、落としちゃったらしくて。見つけてから送っていきました」
良かった、ありがとと僅かに笑ってから金木さんは真顔になる。
「あの子学校が終わるといつも来るでしょ。しかも割と遅くまでいることが多いからさ、ちょっと複雑な家庭なのかとか思ってて。でもそんな単純な理由でよかった」
気付かなかった。つくづく六花は周りが見えていない。複雑な家庭、と言われればもしかするとそうなのかも知れない。あの雑然とした玄関を思い出す。返却ポスト見て来るね、と言い残して去っていく金木さんの背中を六花はぼんやりと見つめていた。

今日も大閲覧室の大机は利用者で埋まっている。歩いて来れる距離に住んでいる近所のお年寄り。平日休みの社会人。雑誌を広げている子連れの主婦。観光客風の人がちらほら。縁に独特の彫り飾りが施されたマホガニー製の机はその中心で堂々たる存在感を放っていた。
──あの机か。うん、当時の物らしいわ。
開架に本を戻しながら、昼休憩時に館長から聞いた言葉を思い出す。机のルーツが気になって、いつからのものか尋ねてみたのだ。裏面に文章が書かれている事は敢えて話さなかった。どんなものかきちんと確かめていないし、話してしまえば歴史資料としてたちまち六花の手の届かないところへ行ってしまいそうで惜しかった。どうしてそんな事を気にするのかとの問いに、利用者さんに時々聞かれるもので──と茶を濁す。事実、そういう事は何度かあったから嘘という訳ではない。
「あ、でもなあ」
館長は後退しかけた額をさすって何やら考え込む。
「そうだ、別荘だわ。あの大机と、他に二、三の調度品はそこから持って来たんだと。前任者がそんな事言ってたわ。何年か前にそこが取り壊しになるとかで、そん時に持って来たらしいで」


──別荘。
あの机は昔からこの本邸にあったものではないという。
避暑に別荘を訪れたこの邸の住人の誰かが、気まぐれか暇潰しで机の裏に文字を綴る。夏が来るたびそうするのが習慣になり、やがて一面に文字が埋まる──そんなところだろうか。そう考えながら文学の書棚を指で辿る。940のラベルの同一作者の作品が見当たらない。
指を彷徨わせていると、つん、と誰かに腰の辺りをつつかれた。
振り返ると、水色のランドセルを背負ったボブヘアの女の子が六花をちらちらと見やっていた。
「あ」
思わず声を漏らした六花は慌てて口を閉じた。少女はもじもじと体を揺らす。
「学校終わったんだ」
くんと首を曲げて頷き、上目遣いでこちらを見るので彼女の目線までしゃがみ込んだ。
「この間、お母さんに怒られなかった? 」
声量を抑えて問うと再び頷く。
「そうなんだ」
それは良い事なのか悪い事なのか。
けれど、彼女の深い事情にまで入り込むのは憚られて、結局「よかったね」と返すに留めた。
「ねえ、そう言えばさ」
あの机──と六花が話題を変えた途端、少女の顔がにわかに生き生きしだした。秘密を共有したと思ったのは彼女も同じだったらしい。私たち、すごい大発見をしたよねとでも言いたげな表情だ。
「……誰にも言ってない? 」
ここで初めて少女は声を発した。
「言ってないよ」
そう伝えると安心したのかはにかんだ笑顔になる。
「正直言って、あれが何なのか私もよく分かんないの。だから誰にも言わなかったの」
「──かほこ」
突然少女は六花の知らない名前を呟く。不意に登場したその名前に六花は戸惑った。
「え? 」
「かほこって名前だと思う。書いた人」
「かほこ?」
少女は出し抜けに背中のランドセルを下ろしてかぶせを開け、ごそごそと中身を探ってノートと筆箱を取り出した。そして足元の絨毯にしゃがみ込んでノートを広げ、何やら鉛筆で熱心に書き出す。唐突な行動に六花はただおろおろして周りの様子を伺った。専門性の高いドイツ文学のコーナーだったので幸い周辺に人が居ないのが助かった。
「『果穂子』? 」
過剰な筆圧で書かれた不格好な文字だったが、彼女が書いた漢字はそのように見えた。
「あそこに、書いてあった。あと、何月何日っていうのもいっぱいあった」
「じゃあ──日記? 」
大机の裏に日記。果穂子なる人物が書いた日記。それにしてもあの暗がりの中、この子はよく見ている。
「難しい字なのに、よく読めたね」
「字がかのんと同じだもん」
そう言って閉じたノートを突きつける。『かんじれんしゅうちょう』と書かれた表紙の下方に目を遣ると、『二 年 三 組    原 田  果 音』と彼女の伸び伸びとした字体で記されていた。
「本当だね。果音ちゃんていうんだ」
二年生なのか。
「“穂”はねえおばあちゃんに教わった」
照れながらも自慢気に話す果音を見つめながら六花は感心する。場面緘黙的な特質に隠れてしまいがちだけれど、先程の観察力といい、この子は中々に賢い子なのかも知れない。
「私は『りっか』って名前だよ」
仕事用に携帯しているメモ帳を破って『やなぎ六花りっか』とふりがな付きで書いて渡す。



受け取った果音は不思議なものでも貰ったようにその紙切れをじっと見つめていた。



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