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“ギリギリ音楽”を発信する人 前編

シンガーソングライター崎山蒼志さんに関しての記事です。私は音楽に詳しい人間ではないので、ここでは彼を知った当時の衝撃と存在の不思議さに焦点を当てて論じたいと思います。2018年の出来事限定、2部構成となっています。


私が崎山蒼志さきやまそうしというミュージシャンを知ったのは2018年の七月あたりだったと思う。

YouTubeにたまたまおすすめで上がってきた動画をクリックしたのは、ただの気まぐれだった。
高校生がオリジナル曲を披露し、それをゲストやプロミュージシャンが審査して優勝者を決めるという主旨のネット番組のバラエティ。そこでピックアップされていたのが崎山蒼志という名の十五歳の少年だった。
冴えない学生服に眼鏡、内気そうな雰囲気に緊張のせいか不明瞭にぼそぼそ喋る声。この子が歌うの? 大丈夫なの? と心配してしまうほどに彼はいかにも頼りなく見えた。続く「自転車に乗れないのが悩みです」という天然ボケなトークに、芸人さんの番組ということもあって完全にお笑い系の展開を予想していた。
しかし、突如として始まったギターのストロークとともに、オリジナル曲『五月雨さみだれ』を歌い出した彼はその瞬間豹変したのだった。

(AbemaTV『日村がゆく』第3回高校生フォークソングGP)

妙だ、と思った。
曲調が妙。発声が妙。ギターのヴォリュームが妙。なのにこれが自分のスタイルだと言わんばかりの揺るぎのなさ。パフォーマンスというよりかは何かの現象を見ている感覚だった。なぜなら彼は演奏に入って以降、自分のことも聴衆のこともまるで気にかけていないように見えたから。先程のあのおどおどした少年はどこへ行ってしまったのだろう。
あんな音程で、あんなリズム感で初っ端から激しく始まるテイストの曲なんか知らない。j-popの枠組みからはかけ離れていて耳慣れない。ただ妙だ、妙だ、何だこれはという感じ。
演奏が終わった直後、何の余韻も残さずに元の崎山少年に戻ってぺこりとお辞儀する姿に、狐につままれたような心地になったのだった。

動画を視聴し終えても、私は暫くぽかんとしていた。
凄いとも凄くないとも、良いとも悪いとも判断がつかない。そういう次元のものではなかったと言ったほうがいい。触れたことのない異国の何かようで正体が掴めない。確かに音楽ではあるのだが、私の乏しい音楽の概念を超えている。そんな音楽のやり方があったのか、ギターってそんな弾き方があったのか、という目から鱗の衝撃であった。
その動画は強烈な違和感を残してあとを引いた。
訳の分からない不思議なものをいきなり見せられて、正体を把握せずにはいられない衝動に駆られた私は、気が付くとYouTubeに上がっている彼の演奏動画を片っ端から見てまわっていた。

動画巡りの二つ目で、早くも「この子は本物だ」と確信した。

(崎山蒼志『夏至』MV)

“虫のように強く、果物のように美しい”

『夏至』という曲のこの歌詞を目にしたとき嫉妬した。
私も使いたかった、小説でこんな言葉を使いたかったのに。だけれどこの言葉は、歌詞として使うからこそ生きるのかも知れない。

私は文学寄りの人間だ。だから真っ先に歌詞に注意が行く。彼の詞はどれもそのまま詩集にしたいくらい文学的だった。言葉遣いが印象的かつ美しい。
“とか”“など”という接続詞が音楽と一体となって効果的に用いられているというインパクト。“何にも感じる事のなき”のような古風めいた表現や、“内面的な感性を受け入れた”などの哲学的な語彙。最初に聴いた『五月雨』だけでは彼の作詞能力を測りかねたけれど、これはもう言い訳が出来ないと思った。歌詞だけで引き込まれる要素としては十分だったけれど、恐ろしいことにギターも曲も声も唯一無二だった。それを組み合わせて表現するのだから、破壊的な効果をもたらすに決まっていた。

まず、ギター演奏が未知である。四歳からギターを始めたという裏打ちされた熟練性もあるのだろうが、多分それだけではあんな風にはならない。ギターがあんなに響いて鳴る楽器だとは知らなかった。音の厚みがギター一本とは思えない。あんな複雑な音を聴いたことがない。人の手が演奏しているとは信じ難い。

音楽性が不可思議である。どのジャンルに当てはまるのか分からない。一番二番、AメロBメロという構造になっていないので、次にどんな展開が来るのか予測がつかないのだ。サビもひとつだけではなかったりもする。すでにオリジナル曲が三百を超えているという楽曲制作の試行錯誤の結果なのか、「曲ってそんな作り方をしてもいいのか」という目から鱗の驚きがあった(後に本人は、“曲作りのことをよく分からないままに作ってきた”とインタビューに答えていたけれど)。

そして歌声。震えと舌足らずさと唸りを含んだような独特の高音だ。インパクトの最大の要因はここだった。この声が絶賛あるいは嫌悪という両極端の反応を呼び起こし、聴く者を選り分ける。最初に聴いたとき、私は音程が合っているのかさえ分からなかった。確かに初見のあの動画で彼はことに緊張しており、思うように発声できていなかったのだな、と今改めて見ると分かる。けれど、音痴というのとは違った。彼は何かが明らかにずば抜けていた。

センスの世界。

従来の型を大きく破って、全てが彼のセンスだけで成り立っている。
動画は彼が十二歳の頃のものから直近の十五歳のものまで見ることができたが、驚くことに私の中では「これはいまいち」と思う楽曲が存在しなかった。ただ一回聴いて分かりやすいかそうでないかの違いがあるだけで、どの曲でもひりひりした焦燥に駆られ、心を深く抉られ、次は次はと貪るように聴き漁りたくなる。聴けば聴くほど中毒になる。はじめは妙だと感じていたところが却って癖になる。
こんなことがあるだろうか。
日々の暮らしの中で、そこまで衝撃を感じる人というのはそうそういない。
小説家の京極夏彦を知った時も“前人未到”のような存在感にずいぶんな衝撃を受けたのだけれど、久しぶりにその同じ感覚が襲ってきた。
しかも、全作品どれもが琴線に触れたのは崎山蒼志が初めてだった。無名の、浜松の素朴な少年に感じたのが初めて。


正確に言えば、きっと私は音楽にはまったのではないのだろう。崎山蒼志に嵌ってしまった。好みのテイストの音楽とかどうだとか、そんなものはどうでも良かった。あまりに繊細で攻撃的で優しい歌詞に、思いもよらないギター演奏に、音楽性に、この少年を丸ごと知りたいと思ってしまったのだ。


なぜ私がその時期に動画を見ていたのか、なぜ七月だったのかというのには理由がある。
私はその年の六月まで長編小説『金魚邸の娘』を執筆していた。一年がかりの執筆だった。力を込め過ぎた反動か、完結後ほっとした気持ちと共にどこか空虚な思いに襲われて力が抜けきってしまい、それで無為にYouTubeを見たりして過ごしていたという経緯だった。
小説を書き終えると喪失感に襲われるというのは物書きにありがちな症状ではあったけれど、特に『金魚邸の娘』を書き切った今、次に何をすれば良いのか、ひいては何のために人生を生きるのか分からなくなってしまっていた。私の感性はもう戻らないのだと思っていた。戻らないままの感性を徐々に受け入れつつ、空虚さとともに力なく生きていくのだと思っていた。

もっと早く崎山蒼志を見つけていたかったと、私は歯噛みした。最初に見た動画が公開された当初の、たった数ヶ月の遅れさえ悔やまれる思いだった。
私は来る日も来る日も崎山蒼志の動画を探しては聴き漁ることにのめり込んだ。何しろ当時の彼はプロミュージシャンではない。ただの地方の高校生だ。ライブも地元のささやかなもののみだし、音源配信もCDもない。それで、縋るように動画を探るしかなかった。見落としがないように、ひとつも取りこぼさないように。
この情熱は自分でも驚いた。まるで熱に浮かされているように夢中になっている日々のなか、あるとき気づいた。

この高揚と焦燥は思春期と同じだ。

何かに焦がれて、夢中になって、痛くてそして輝いて。
堪らなく何かをしたくなる。何かを掴み取りたくなる。このままでは駄目。私はなにか、なにか。

戻って来た。
私にとって、『崎山蒼志』は劇薬だった。あんなに足掻いて取り戻せなかった感受性を、いとも簡単に目の前に差し出してくれた。



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