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春霖

雨が続くと、思い出す言葉があります。梅雨の季節に寄せて。

春霖しゅんりん、という言葉を知った。つい最近のことだ。春の穏やかな長雨のことをそう呼ぶのらしい。


ながめ」とは長雨の意味合いを持つ字である。霖雨りんうともいう。
季節ごとの表現として春霖、梅霖ばいりん秋霖しゅうりんなどと細かに分けられている繊細さが、如何にも日本人的な感性だ。
私は意図せず繊細な人間として生まれた。感受性が豊かである代わりに世の中を図太く生きていく器用さを持たないHSPハイリーセンシティブ気質である。

そんな私が一体今までどうやって生きてきたのかというと、自分のことを取るに足りない、ぞんざいに扱ってもいい人物なのだと周りに明示することでそうしてきた。自らおどけ役を買って出たりして、私の事はわらっても一向に構わないですよというメッセージを自ら発信していた。どうしてそんな結論に至ったのかわからない。でも、どうしても確固とした態度で自分が価値のある人間だと主張することはできなくて、自分でもそうは思えなくて、誰かに好かれることを私は早くから諦めていた。
基本的に、周りは私のことが嫌いで不快で目障り。私は人ではないし、人だとも思われていない。自分を自分で貶めるというおかしなやり方で、私は私なりに自分を守っていたのかも知れない。
それが私を取り巻く当たり前の環境で、おかしいなんて思わなかった。母も父も私をとろくて頭の足りない子だと思っていたし、失敗したり失言したりすればその話題を面白おかしく取り上げた。学校ではもっと露骨だった。そういう時の私は周りと一緒に笑うか、じっと黙っているかのどちらかだった。
腹を立てることはなかった。腹を立てる、という思考回路を知らなかった。
そうしてやっと、大人になって気がつく。
ああ私、本当は誰かに蔑ろにされる都度傷ついて来たのだ、と。そうして出来上がった私は「自分が誰かに好かれている」ということを頑なに認めることが出来ない。こんなにも、出来ない。
私、否定的なことを言われた? 言われていない。無視された? されていない。なのに、私は怖い。自分を認めることがあまりにも怖い。
私は後退している。なぜか。何かショックなことがあったとか、そういうことではない。それはオプションでしかない。真の原因は、摩耗だ。
私の尊厳は長い時間をかけてざりざり削り取られていって今、神経や骨までもが露出している。
見下げられるのは当たり前のこと。それは当然のこと。だからそこに異議を唱えるなんて、おかしいのにね。


不本意に、不本意な場所で私は知ってしまった。
私が私としての尊厳を保って、蔑ろにされない場所を意図せず持ってしまった。実際に対面するような環境では情報量が多くて混乱しがちな私も、言葉なら自由に泳げる。絵なら、一瞬で人の心を射止められたりする。驚くべきことだった。
何でみんなして私のこと「凄い人」扱いするんだろう。どうしてきちんとした人間として敬意ある話し方をしてくれるんだろう。誰も彼も、私としての存在を大事に扱ってくれた。私も私で、相手が励ましたり慰めたりしようとしてくれるのを不思議と感じ取って反応出来たりした。
そういう温かな交流が、正直嬉しかった。
私の絵が好きで、泣いてしまったという人。書いた物語に思いを馳せてくれた人。私の存在が貴重で大事と言ってくれた人。
“尊敬しています”、“貴重な存在です” と言ってもらった時とても嬉しくて、どうして嬉しいのだろうとしばらく考えていた。
考えて漸く気がついた。尊厳や敬意を示してもらったこと、それが嬉しかったのだと。そこには温かさも含まれていたので、正確に言えば「愛情の籠もった敬意」である。
よく“男性は敬意、女性は愛情を相手に求める”と聞く。でも改めて考えれば、どちらもきっとそれ単体を求める訳ではないのだと思う。比率は違えど、両方含まれてはじめて心地良いものとなるのだろう。
“愛情のない敬意”はどちらかというと権威者に示すような社会的なものだし、“敬意のない愛情”はペットに対するような自分本位のものだ。
特に敬意のない愛情は、愛ではあるのにそれが向けられるときどうして傷付いてしまうのだろう。いわゆる毒親と呼ばれる人の愛情は多分それに類するもので、故に子を傷つける。反発されると「こんなに愛情を注いできたのに」と驚くのは、自分が示しているのは自分本位の愛情であることに無自覚だからで、そういう尊厳の含まれない愛情がいかに人を痛めつけるものなのか知らないからだ。
今になって、自分が愛というより敬意を示されたのが嬉しかったのだと知って驚いた。本当はずっと敬意を渇望していたのだ。

今更気付いてしまう。自分が傷ついてきたことを気付かない振りをしてきたことに、気付いてしまう。
ただシンプルなこと。私は私を、人として扱って欲しかったのだな。
多分今の世の中、そう感じるのは私だけでは無いはずだ。ここは個人の尊厳が剥奪されて傷ついた人が溢れかえっているような世界だ。

──ねえ、あなたは決して、軽く扱われていい人間じゃない。蔑ろにされていい人間じゃない。誰にだって尊厳があって、大事に扱われる必要がある。

言い聞かせる。目頭とも目尻ともなく、溢れていく。
ああ、私が子どもの頃から漠然と死にたかったのは、それゆえのことではなかったか。誰もが私を要らない者と判断したと感じ、自分の価値が、自分の尊厳が感じられぬゆえではなかったか。“どうせ自分が死んでも誰も大して騒ぐまい”との諦念から。

ありがとうね。

私とあなたは、とても良い友情関係を築けていたと思う。互いに敬意を払い、感じ方を知りたいと思い、元気に過ごしてくれたらいいと思った。それらを素直に言葉にできた。あなたは私の考えを尊重してくれて、決して存在を軽く扱うことはなかった。
 そこを揺るがされてしまうと、今更そうされると、分からなくなってしまう。こんなふうに存在そのものを貴重なものみたいに扱われたら。
これは何だろう。肌が湿っているのは感じたけれど、気持ちは穏やか、不快には感じなかった。きっと流れているのが雨だからだ。
あなたがくれたのは春霖、優しい春の雨なのだ。
それは冬の雪をも融かして循環させる。融けて染み込んで地下に蓄えられて。
やがて流れる──止めどなく。


薄ぼんやりとは分かっていた。けれど、はっと目覚める時みたいに自分がどれだけ蔑ろにされた扱いに慣れきっていたのかに気がついた時、耐えがたい程泣きたい気持ちになった。知ってしまった。

つい最近のことだ。

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