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七十二 翠令、倒れる
野分の翌日の未明、翠令は寒さで目が覚めた。寒くて寒くてたまらない。歯の根が合わないほど身体がガタガタと震える。
歯を食いしばって耐えているうちに辺りが明るくなってくる。だんだんと陽がのぼるその午前の空には雲一つない。
夏の終わりであっても、このような昼日中は秋の気配を押し返す勢いがある。木々の葉は青々と茂って、湿度を含んだ空気は今日も残暑が厳しくなりそうな予兆に満ちている。
それなのに、
七十一 翠令、苦しい道のりを行く
都の東に連なる峯は、ごく単純に東山と呼ばれている。翠令が山道を登って峠に着くと、そこから京の都城全体を見渡すことが出来た。
あとはこの坂を下れば一山を越すことになる。錦濤の平野部に育って山道に慣れない彼女だったが、滑り出しは上々だろう。
──良かった。これなら私の脚でも東国まで行くことができそうだ。
東国の佳卓のいる場所は遠いが、このような山越えをただ繰り返していけば済むのだと思えば
七十 翠令、立ちはだかる関門を知る
これまで黙っていた梨の典侍がおずおずと口を開く。
「佳卓様はいつお戻りになるのじゃろうか? 都の変事は東国にもいずれ伝わるでありましょう?」
ここに居る誰にも良い考えが思い浮かばないのなら、知恵者の佳卓を頼ろうとするのは自然な発想だ。
だた、問われた佳卓の兄は首を横に振った。
「もちろん円偉は佳卓に何らかの使者を送るでしょう。しかしながら、佳卓が円偉からの正使の情報を元に動いても……
六十九 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(三)
しかし、佳卓の兄は飄々と答えた。
「左大臣家としては今のところ表立ってお力を貸すことはございません」
その拒絶の言葉に翠令がいきり立つ。
「それは! 今まで我らの話を聞いていらっしゃらなかったのか!」
竹の宮の姫君が先々帝の直宮の立場から帝位の在り方を説いた。錦濤の姫宮は好奇心豊かで明るく闊達なご気性であられるゆえに東宮に相応しい器である。我らは情理を尽くしてそう結論付けたはず。
六十八 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(二)
姫君が流した涙はその一滴だけで、毅然とした貌を取り戻す。
「わたくしは、錦濤の御方こそ東宮であるべきと考えます」
「それは……」と翠令は口にし、そして慌てて「ありがとう存じます」と頭を下げた。
姫宮の叔母であり、そして今、新しい東宮として朝廷に迎えられているこの方からそう言って頂けるのは心強い。ただ……翠令は姫宮がお幸せであればそれでいい。東宮に相応しい少女だと思うが、それはこの竹の宮の
六十六 翠令、失踪する
錦濤の姫宮が京の都から追われたその夜、女武人翠令が失踪した。
そして翌朝。
左京三条京極の貴族の邸宅にて、一人の新参の女房がこの邸の女君に挨拶をしている。その場にはその女君のもとに通う婿君も同席していた。左大臣家の嫡男、佳卓の兄である。
この夫婦がそれぞれに新参の女房に声を掛ける。
佳卓の兄が微笑んだ。
「翠令もこうしていると普通の女君に見えるね。少し背が高いくらいで」
女君
六十七 翠令、竹の宮の姫君にお会いする(一)
翠令は女房に扮して久しぶりに内裏へ入る。
梨の典侍が清涼殿の南の廂で、佳卓の兄と並んで翠令を待っていた。
「竹の宮の姫君をお世話申し上げるにあたって、かような良き女房をお借りでき助かり申す。それでは、姫君がお入りになられた襲芳舎に参りましょう」
翠令には聞き慣れない名称だった。
「襲芳舎?」
典侍は「ああ、翠令殿には初めての場所であったの」と独り言ち、そして説明してくれる。
「襲
六十五 姫宮、夜の河をお下りになる
翠令を睨みつけていた女房の表情が一変した。
「す、翠令様⁈」
その声に呼応して母屋からぱたぱたと足音が近づいてくる。
「翠令? 翠令が来たの? どこ?」
初めてこの御所に来た時と同じ燕服をお召しの姫宮は、きょろきょろとあたりを見回しておいでだった。しかし翠令を見つけることが出来ない。
「……翠令って呼ぶ声がしたし、翠令の声も聞こえたんだけど……」
「ここでございます」
腰を伸
六十四 翠令、姫宮について行こうとする(二)
翠令を睨みつけていた女房の表情が一変した。
「す、翠令様⁈」
その声に呼応して母屋からぱたぱたと足音が近づいてくる。
「翠令? 翠令が来たの? どこ?」
初めてこの御所に来た時と同じ燕服をお召しの姫宮は、きょろきょろとあたりを見回しておいでだった。しかし翠令を見つけることが出来ない。
「……翠令って呼ぶ声がしたし、翠令の声も聞こえたんだけど……」
「ここでございます」
腰を伸
六十三 翠令、姫宮について行こうとする(一)
意識を取り戻した時、翠令は両手両足が縄で縛り上げられて床の上に転がされていた。
どこかの小屋に監禁されているらしい。壁際に箱が積み上げられているから何かの倉庫のようだ。弓矢が置かれているから衛府のいずれかのものであろうか。
天井近くに風を通すための小窓が開けられている。この明るさからするともうすぐ正午となる頃のようだった。
──一晩が経ったのか。姫宮はご無事だろうか……。
早く姫宮
六十二 翠令、政変に直面する(二)
姫宮は食膳を前に座ったまま、目を見開いてぽかんとその男を見上げていらした。
「な……!」
言葉のない翠令に代わって、梨の典侍が立ち上がって問いただした。
「お前達、姫宮が竹の宮の姫君に呪詛を行ったと申すのか!」
「さよう」
「呪詛は大罪ぞ。そのような疑い、軽々に申すは無礼であろう。そもそも宮様が何故竹の宮の姫君を呪わねばならぬのか?」
「この朝廷を乗っ取ろうとするためだ。この女童は
六十一 翠令、政変に直面する(一)
姫宮が夕餉を召し上がる際、梨の典侍と翠令がお話し相手を務める。
夏の終わり頃でもまだ日は長く外は明るいが、それでも姫宮のために灯火が供せられる。邸内は心地よい程度に華やぎ、格子も御簾も上げていると夕風が南庭の池の水面から爽やかな水の匂いを運んでくる。
梨の典侍がにこやかに翠令に尋ねた。
「あの御酒、白狼殿の口におうたかの?」
「ええ。白狼は前と同じく『上等な酒だ』と喜んでおりました」
六十 翠令、佳卓と最後に話す
翌晩、翠令は佳卓の許を訪れた。謹慎中ゆえ日が暮れてからの外出で、ちょうど佳卓は邸宅に帰ろうとしていたところだったようだ。部屋の入口の衝立の所で、手に包みを持った佳卓と行き会う。
「やあ、翠令」
佳卓はいつものように声を掛けてきたが、顔には軽い驚きの色があった。姫君と翠令には昨日昭陽舎で挨拶を済ませていたので、彼にとって彼女の来訪は意外に感じているらしい。
「明日にはいよいよ出発だ。その直
五十九 翠令、白狼の後悔を聞く
佳卓が東国に出立するのを明後日に控えたその日、彼は錦濤の姫宮の許に挨拶に来た。
姫宮がお謝りになる。
「ごめんなさいね、佳卓。私が立太子の式のために税を上げるかどうかで円偉をとても怒らせてしまったから、佳卓が東国に行かなきゃならなくなったのよね……」
御簾の脇に控えていた翠令が急いで申し上げた。
「姫宮が直接の原因ではありません。私が合議の場に乗り込もうとさえしなければ、佳卓様がこの
五十八 白狼、佳卓に掴みかかる(二)
御簾の中から、女がいざる衣擦れの音がする。御簾のぎりぎりまで姫君は佳卓に近寄ってきたようだ。
「円偉が白狼に嫉妬するなら、わたくしから遠ざけるだけで済む話でしょう? なぜ命まで奪おうとするのですか?」
「ここから先は、円偉殿と親しい私の兄からの情報と合わせての話となりますが……」
「佳卓の兄とは……左大臣家の嫡男ですね」
「さようです。私も個人的に円偉殿から好意を寄せられていると思います
五十七 白狼、佳卓に掴みかかる(一)
「どういうことだ! 佳卓!」
その日は大雨だった。篠突く雨は時刻が過ぎるほどにさらに激しくなり、方角の一定しない風を巻き込み荒れ狂う。
多忙のはずの佳卓は、夕刻になる前に何とか仕事に一段落つけて来たと言う。嵐の中を京から竹の宮へ馬を走らせてきた彼は、げっそりと疲れ切った顔をしていた。
そんな佳卓の姿を見た白狼は、それだけで嫌な予感がしていた。前もってここの女主人に連絡を寄越すでもなく、