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第27話 毒母の来襲を迎え撃て!

 氏は女子寮に入れるとは思っておらず玄関先で立ち話するつもりでいたが、受付にいた筧さんが「じゃあ、面会室を使いましょう」と提案してくれた。

「面会室? そんなのがあるんですか?」

「ほら。玄関の正面にドアがあるじゃん」

 三和土の奥に小部屋があるが……。

「ここ、物置じゃないんですか?」

「実質そうなってるけど、元は寮に入れない男性の来客を通すための部屋だったんだよ」

 筧さんが受付室から出てそのドアを開ける。段ボールや昭和の時代の扇風機やテニスラケットなんかが雑然と置かれているが、確かに会議室のような椅子と机もある。もっとも、どれもこれもうっすら埃をかぶっているが。

 筧さんが「在寮しているメンバーを集められるだけ集めてきます」と一度部屋を出、そしてがやがやと寮生を連れて来た。

 それぞれが自己紹介をするのに氏は几帳面に「初めまして」を繰り返していたが、一段落すると笑った。

「でも、初対面という感じはしないんですよ。北村さんの話で既に皆さんと旧知の仲のような気がする」

 炭川さんが笑った。

「美希ちゃん、話が上手いから」

 全員分の椅子を食堂から持ってくるよう手配をつけた新市さんが、皆が座ったところで切り出した。

「作戦会議とは?」

 これには氏ではなく河合さんが答える。

「毒母は普通じゃないから。前もって打ち合わせが要ると私も思う」

 河合さんがため息をついた。

「毒親って言葉は学術用語ではなく、まあ俗語でさ。困った親を総称しているからいろんなタイプがいるけど、美希ちゃんの母親はこういう感じかもってネットで調べて見たりはしてる」

「そんなことして下さったんですか?」

 新市さんも「私もちょっと調べてる」と加わった。

「娘の学業を阻んで家政婦的役割を担わせるの、ジェンダー論的に興味深いし」

 炭川さんも「私も」と加わるが、これは分かる。

「あ、漫画のネタですね」

「うん」

 河合さんが口調を改めた。

「美希ちゃんの母親は隙あらば美希ちゃんを手元に戻そうとしている。お金も気も使わなくていいカウンセラー兼将来の介護士として」

 皆が揃って頷く。

「白河さんが上手くやったように、今回も、美希ちゃんがここで学生生活を送ることで母親に利益が生じると思わせなくてはならない。かといって娘が自分の世話もせず自由な学生生活を楽しんでると妬ませてもダメ」

 由梨さんが目を伏せた。

「妬むなんて……普通は子どもが学生生活を謳歌していれば喜ぶものなのに……」

 氏が首を振った。

「自分が観光に来たいのが第一で、北村さんの京都での暮らしには無頓着なようでした」

 河合さんが「でしょうね」と答え、「そのままヘンに関心を持たれないようにしましょう。それにはまず武田さんは笑わないでください」と氏を指さした。

「は?」

「美希ちゃんから聞いていた通り、笑うととても好感度が上がってしまいます。美希ちゃんの彼氏がカッコよかったり優しそうだったりするとまずいんです」

「……そうですか」

「それから散髪にも行かないで。そのぼさぼさ頭をキープしといて下さいね」

「……はい」
 
 母は十一月下旬に京都にやってきた。地下鉄烏丸線で北大路駅まで来て、タクシーで寮の前に降り立つ。

 白河邸の玄関で美希は武田氏と母を待っていた。礼儀正しく挨拶する氏を見て母は満足そうだ。今日の氏はネルシャツにジーンズとありきたりな学生そのもののファッションであり、微笑みさえしなければ一重の瞼が重たげに見えて人相も悪い。

 母は「美希にいい彼氏ができて良かった」という意味のことを繰り返しながら、玄関ホールを抜けて白河邸の応接間に通される。

 白河さんは美希を、ひいては美希を育てた母を持ち上げまくった。

「ほんまに礼儀正しく生活態度もきちんとしたエエお嬢さんどすなあ~。良家のご令嬢そのものでまさにお母様の躾の賜物。よう出来た娘さんをお持ちで羨ましいですわぁ!」

 寮委員長の新市さんと美希を寮に誘った金田さんも同席している。金田さんは金髪のウィッグをしていない。母を刺激しないためだ。

 一方で、白河さんはマウンティングも辞さない。事前の打ち合わせでは「北村さんには強い後ろ盾がいると認識させなアカン」とのことだった。

「今日は建築学科の学生さんにウチを建てたときの資料をお見せしますねん。この家、ヴォーリズ建築を忠実に再現しようとしましてな。ご存知ですか、ヴォーリズ?」

 権威に弱い母は追従笑いを浮かべた。

「いえ……でも、有名な建築家なんでしょうね」
 
 ご主人の部屋に向かう途中の廊下で母は「建築と言えば」と武田氏に話しかけた。

「建築学科をご卒業されて将来はどうなさるの?」

「建築士になります」

「もちろん大企業にお勤めよね? 建築事務所って看板を街中で見かけるけど、あんな小さなところに就職なんてないですわよね? 西都大学に入ってそんなもったいないこと……」

 財閥系の大企業に勤める父を夫としている母には、才能があるからこそ個人でやっていけるのだという発想はない。

 氏が淡々と答える。
「ええ。そうですね。やはり大企業勤めは安定していますし」

 もちろん氏はそんなことを考えていない。実験的な試みができる環境に身を置きたいと願っている。だのに、そんな嘘をつかせてしまって申し訳ない。

「そうよねえ。今時の若い男の子は妻を働かせて、自分で家族をちゃんと養おうという気概がない人が増えているのでしょう? 昔はそういうのを甲斐性なしって呼んでいたのに」

 氏は口の端を釣り上げた。

「僕は甲斐性持ちでありたいと思っていますよ」

 美希には分かる。この氏の口調には相当皮肉が込もっている。
 
 先を行く白河さんが後ろを振り向き、二人の会話を遮ってくれた。

「あの『どんつき』の部屋が主人の書斎どす」

「どんつき?」

「突き当りという意味ですわ」

 案内された部屋にはぎっしりと本があり、窓際の古めかしい机に設計図その他の資料が置かれていた。

 机の上の資料に武田氏が食いつくのは予想できたが、意外に金田さんも興味深そうに手に取って眺めている。氏が金田さんに視線を向けた。それに金田さんが説明する。

「私、工学部の材料工学科だったから」

 そして二人は物理学の話題を始めてしまった。物理以外で大学入試を乗り切った美希には分からない世界だ。
 
 次に美希は母と女子寮に向かう。武田氏は男性だからもともと白河邸で資料を見て過ごすことになっていたし、金田さんは元が理系で工学関係の話が弾んでいるので一緒に資料を見て過ごしてもらうことにした。
 
 母は寮の廃墟のような建物を見て「こんなところに人が住めるの?」と驚き、血の池のような色あせた赤いリノリウムの床に雑然と靴が並んでいる玄関に無言となった。

 受付の河合さんが「こんにちは」と声を掛ける。母は「お邪魔します」と答えて靴を脱いだ。新市さんは娯楽室に立ち入らないようその前で待機だ。
 
 母は二階の美希の部屋に入ると、八畳間を二人でシェアする様子に満足そうに頷いた。

「ママもね。姑と同居で息が詰まるようだったわ。他人と狭い部屋で一緒なんて嫌でしょうけど、こういう苦労も大事なことよ」

 和田さんに相談しておいたのは正解だった。和田さんは「私と四六時中一緒と思われた方が良ければ収納庫から私の持ち物を取り出して生活感を演出してくれていいですよ」と言ってくれた。あと、「必要なら『いびきがうるさい』とか『説教がましい』とか私を悪者にしてくれていいです」とも。

 もっとも、母は同室の人にこれ以上興味はないようで、美希の机の上の本をチェックし始めた。

「この本は?」

 美希の予想外だったのは、本棚の端から順に見ていくことだ。わざと端に寄せておいた炭川さんの著作権に関する本を指す。炭川さんは「私の存在は消しといて。漫画やってる友人なんて理解されるはずないし」と言っていた。

「それは……趣味で小説を書いている人がいて……」

「ふうん……あら!」

 中央には筧さんが「FPって相続関係も扱うから、それに特化した本持ってる」と美希に貸してくれた本を並べてある。

「ちゃんと遺産相続のこと、勉強してくれているのね」

「うん……」

 コンコンとノックの音がした。そう、母が部屋にいるタイミングで来る手はずになっていた人物だ。

 千本北大路にある仏門大学で福祉を学ぶ賀川さんだ。筧さんが頼んでおいてくれたのだ。

 現場での実習と彼氏とのデートで多忙な彼女を、美希はたまに顔を合わす人としか認識していなかったが、向こうは美希が印象深かったらしい。「いつも会話の中心にいるよね。これを機会に私とも仲良くしてくれると嬉しい」と頼みを快諾してくれた。

 そして、美希が自室に招き入れると、母に表紙が見えるようにして美希に本を渡してくれる。

「この介護の本、貸すわね」

 母が嬉しげだったのは言うまでもない。
 
 少し予定外だったのは、帰り際の母が受付の河合さんと、一緒にいた由梨さんと話したことだ。

 それぞれ西都大学の教育学部と理学部だと知った母は大げさなほど感心して見せた。

「あらあ、優秀なんですねえ」

 河合さんが困った顔で応える。

「私たちは美希ちゃんこそ優秀だと思っていますよ。謙虚に学ぶ姿勢が素晴らしいって思うんです」

「いいえ、貴女の方が。カウンセリングを学ぶなんて親御さんも喜んでおいででしょう?」

 河合さんは苦笑するにとどめた。この場合、娘が社会的に重要な仕事に就くかどうかではなく、親の愚痴聞きを無償で引き受けられることを指していると分かっているからだろう。
 
 母は夕暮れまでに寮を出て地下鉄の駅まで歩くことにした。道順が分からないから美希について来てと頼む。

 北大路に出ると、下鴨中通との交差点から藤原さんが後をついて来てくれた。ここは府立大学キャンパスのすぐ近く。もし母と二人きりになって再び退学を命令されたら、藤原さんが通りがかりを装って遮ってくれる手はずになっている。府立大学の学生証を見せれば彼女も通学途中なのだと証明できるからだ。
 
 母はこれまでの取り繕った高音ではなく、低く粘着質な声に戻った。

「美希ちゃん、あの心理学をやってる人に変なことを吹き込まれてない?」

「変なこと?」

 母の「変」と言う言葉が差す範囲は広い。母は自分に愉快でないものを「変」と一括りにするだけで、それぞれの内実を表現する語彙力がない。

「ほら。最近はちょっとしたことでも『心の傷』とか『PTSD』とかって騒ぐじゃない? 昔はそんなこと言わなかったわ。だから最近の日本人は甘ったれになっちゃって社会がおかしくなったのよ」

「……」

「隣にいた高橋由梨って人、アレ、絶対拒食症よね」

「ママ!」

「戦争中とか食べたくても食べられない環境に拒食症なんてなかったわ。綺麗になってチヤホヤされたいからってねえ……。女の子なのに西都大の、しかも理系に進学するなんて。きっと勉強のしすぎで頭が狂っちゃったのね」

 美希は唇を噛み、そして後ろをさりげなく振り返った。藤原さんが肩を竦めて首を横に振ってくれた。

「まあ、美希は大丈夫よね。あの寮って西都大学だけじゃなくて偏差値の低い大学の学生もいるじゃない? 美希は昔から勉強が出来ない子が嫌いでしょう? あんな環境に染まる訳ないわよね?」

 美希が苦手なのは、成績の良し悪しではなく、学ぶことを軽んじるタイプだ。聖星女学院に多くいた、『勉強が好きなんて異常だ』と決めつけて、自分達と違って真面目な人間を嘲笑うような人たち。

 下鴨女子寮の寮生の通う大学を偏差値で序列づけることは出来るかもしれないが、美希がそうしたことはない。そんなことより、皆のそれぞれの分野に対する真摯な姿勢を素晴らしいと思っている。

 美希は息を吐いた。

 下鴨寮生たちは、美希が大事にしていることを大事にしている人たちなのだ。なのにこの母は……。自分はこんなにも自分の価値観とかけ離れていた人間と暮らしていたのか。美希は高校までの自分がとても孤独だったことに胸が痛んだ。自分のために哀しみを覚えるのは生まれて初めてのことだった。

 母は美希の心中などお構いなしに喋り続ける。

「あの白河ってお婆さん、自分の御屋敷をひけらかすみたいで嫌よねえ。でも、家柄はいい人みたいで安心したわ。そんな人なら変な人は寮に入れないでしょうし」

 また「変」だ。この「変」は何?

「変な思想にまみれている人。ほら、フェミニズムなんかにかぶれている女子学生とか。あとザイニチとかね」

「ザイニチ……」

「朝鮮人よ。日本人じゃない人たち」

 一瞬、背後の藤原さんが息を飲む気配を感じた。母は自分の発言が人を驚かせるものだとは全く思わず、軽々と話題を変える。

「美希ちゃんの彼氏……」

 ここで母は思ってもないことを言いだした。

「金田さんと随分話が弾んでいたわね。理系の分野で分かり合える人同士で気が合ったんでしょう。美希は文系だからきっと合わないわ。美希が男の人にモテるはずないんだから、安心していてはダメ。武田さんにいつふられてもいいように、他のご縁も大切にね」

 美希は動揺のあまり口を動かすことも出来ない。

「ほら。合コンとかあるでしょう? 色んな男の人に可愛がられるようにしておくのよ。いい? 西都大学の女子学生だから生意気だなんて思われないようにね。常に男の人を立てるのを忘れちゃダメ」

 その後、母とどんな遣り取りをしたか美希は覚えていない。母が改札を抜けて、ホームへの階段を降りるのを見届けると、藤原さんが美希の肩を叩いた。

「お疲れ。なんか強烈なお母さんだね……。確かにありゃ毒だわ」


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