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メッセージ トーベ・ヤンソン自選短篇集【ローベット】を読んで。

 『普通』じゃないことをするローベット。手紙には、最低限、失礼とならないように言葉を添えたようだが、自己弁護的にも響いている。自分の物語の中に生きるローベット。しかしその気持は分からなくもないのである。本人は自らのうちにある線路に沿って、環境を整えたといったところなのだろう。ここが足りないから色を足そう、ここが空いているから四角をはめ込もう、道なりに石ころがあるから端へ退けよう。「ごめんよ、そういう意味じゃなくって、これは僕の問題なんだ」という風に。

 僕は一時期、写真に凝ったことがあった。今でもカメラを見ると、あの時の日差しや大気に包まれる。ひとり京都へ散策へ行ったのであった。中古の単焦点レンズで膨れ上がったカメラバッグを肩から下げて、使うのか分からない三脚も携え、その嵩と重量の不自由が僕に玄人気分を与えて、得意にさせていた。僕は手始めに橋の上から鴨川を切り取った。鴨川をファインダーの対角に流した。次には垂直に水面と岸を分かちた。等間隔の恋人たちを讃えた。煌めく鴨川の面をハイキーにして満ちた光線をイメージセンサーに焼き付けた。僕は欄干の下、地べたに身体を横たえていた。バシャバシャとシャッターを切る顔のすぐ横で往来の足が行き交う。自分の世界が低く、他の世界が高く、別に動いていた。戦場カメラマンなんかは写真を撮影しているうちに、危険な領域へ足を踏み入れることがあるという。写真は世界を切り取ると表現されるが、まさにファインダーの中の世界以外が消滅し、画角の中だけの世界に心を奪われるのである。それはまさしく『視野』であろう。

 世界には特有の事象というものはないのでは、と思う。表出の仕方は違えど、通底しているものなのだと思うのだ。通底していると人が勝手に見るのかも知れないけれど、そう見てしまうのなら、やはり似ているからだろう。自分の好きなことに想いの熱を傾けて、充実と苦悩の中でもがく時、それは自ずと集中という状態へ導かれる。集中とは相対的なもので、選択されれば、それは限定であり、集中をも意味し、そうしてようやく深部へ漕ぎ出せるような気がする。ローベットはまさに自らの道に一途であったではないか。だからこそ、『普通』ではないあれほどにも奇抜な手紙を送ったのだ。だからこそ、「わかってくれたかい?」などとご丁寧に声までかけたのだろう。速度を増す車窓からの景色が残像に溺れて不明瞭となるように、ローベットにとって周囲の人たちは、距離をとりたい景色に近いものだったのかも知れない。その人たちにこの手紙が真にどのように思われるかは彼にとって些事のようで、ローベットは元来そういう人のような気がしてくる。無邪気に自分本位で愚直でひたすらに純で変わらない人。そのままずんずんと進んで、どこへ行ってしまったのか分からなくなってしまう人。
 世間では、『普通』以外はあまり歓迎されないようだが、人に迷惑をかけないうちには、気ままに轍を外れ、背ほどもある草をかき分けて、真っ直ぐにどんどん進んでみたいなと、多少の憧れまじりに思うのである。

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