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0から1。1から0。

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最近の記事

いまここ。

自分が今立っている場所はいったいどこなんだろう。 両の足の下には、いつだって地球を踏みしめているのだけど、 心はふわふわと、「いまここ」ではないことにつかまってて、 両の足の下でなにを踏んずけてても 気づかないくらいのところで生きていくということに 意識的にも無意識的にも生じる心のささくれが、 チクチクと痛むときに、そんなチクチクを紛らわせる手段に、 思考停止になって時間を奪われていくことの違和感すらも 心の中に澱となっていく。 走り回って、ふんずけて、 つくづく自分の

    • 書くことの意味

      いつの間にか書くことが、自分の外側にある、後付けの武装品にどうやって光をあてるかというようなものに変わってしまっていたのかもしれない。 書くことは、そぎ落とすことで、真夏に汗をびっしょり書いた後に浴びるシャワーのようなもので、自分で自分のそのまんまを抱きしめるようなものだったのに。 理屈や道理につかまって、非効率で、意味のかけらもないような行動と、後先に向こう側にしかないその一瞬に命を燃やせるような衝動を、鼻で笑いながら、腕を組んで眺めながら、わかったような大人ってものに

      • 惑わずなんてことはない。

        いままで、誰かの為に何かをすることで得てきたことを、 自分の為に使いたい。 自分が「生きる」ことの為に使いたいと、 つまるところそういう欲求なんだろうな。

        • ここでない場所。

          自分の場合、文字を生み出す場所というのは、現実世界とは少しずれた場所にある。その場所が久しく遠くに感じる。 現実とはつまりは、税金の支払いであったり、給与の振り込みであったり、健康診断の結果であったり、締め切りの迫る書類であったり、いわば、 「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり 「生きていくためにこなさなければならないこと」の延長にあるような類のことだ。 その「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」を片づける

        いまここ。

          バラ色の日々。

          ここにでてくる映像も写真も、自分の思い出でもなんでもないのだけど、でもそれがさも自分の思い出であるかのような錯覚を覚えると同時に、 いまここが西暦何年で、今自分がなにをしていたのか、現実と思い出の境目が一瞬でぼやけて、溶けていくような気がした。 京都のはずれ。小さなワンルームの重いドアがあいて、カラフルなマフラーを巻いたあの人が今にもはいってくるような。 隣の公園から響いてくる音に耳を澄ましながら、小汚いマットレスの上でひたすらに時間を浪費するかのような、怠惰でいて、そ

          バラ色の日々。

          デッサン。

          デッサンを始めた方が、はじめは3次元の物体を2次元にするってことがどうしても理解できなくて、上下の2次元の動きだけで3次元のものを表現することに一種の混乱のような状態だったのだけど、 ずっと続けていくうちに、ふとその上下だけの動きの中に、物質をとらえる感触が分かってきて、そこにある奥行や、丸みや、光など、そういうものを上手に2次元に変換できるようになる瞬間があったという、 そうなるとデッサンはおもしろくなってきて、目に見えたものをついつい書いてしまうと話を、さらにデッサン

          デッサン。

          意識をここに。

          意識をここにもってくるということを、ここ何年もずっと意識してきたように思う。 それが自分のものになったかと思えば、またすぐに忘れてしまって、一進一退つかんではするり。 「湧いてくる」ということが必ずしもいいことなのかどうかはわからない。 湧いてきたイメージを具現化する作業に意味を見出していた昔と今は少し変わってきていて、瞬間的に形のないものを形のないままにさばいていくような場面が増えてきた。その姿勢の変化をどう受け止めるべきか、自問自答しながら恐る恐る進む。 「言いた

          意識をここに。

          悲しみとの同居。

          避けがたい悲しみに出会わねばならないときに。 落ちる涙に蓋をするのではなく、 底をつくまで涙を落とせばいい。 悲しみを自分の外に追いやり、追い出すのではなく、悲しみは内包して、同居することで、その思いは糧に変わっていくのかもしれない。

          悲しみとの同居。

          感じること。

          書くことと同じくらい、感じることももっと自由だったはずだ。 書くことと感じることはとても似ている。 心がどういうときに、言葉を紡げて、やわらかく多くを感じることができるのか、すこしづつ体感をともなっていかなければならない。

          感じること。

          書くこと。

          書くことはもっと自由だったはずだ。 もっと感覚的で、頭ではなく心からしぼりだし、心を文字に無理矢理でもこじつけて、目に見えないものを凝固して、体の中から排出するかのような作業だったはずだ。 いつからこんなに頭で言葉をかくようになったのだろうか。 心を文字にするのではなく、文字が心に入ってくくるような、なんともしっくりこないベクトルの向きをなんとかしたい。 少しづつリハビリ。

          書くこと。

          踊り場的な。

          踊り場的な場所や、時間の中にいるときに、すごく心が落ち着くのだ。 いままで自分の中で、”その瞬間”になぜ心が安らぐのか、うまく言葉にできなかったのだけど、その不思議な感覚を「踊り場的な」と表現することがとてもしっくりきたのだ。 踊り場的な場所というのは言い換えるのならば、 たしかにそこにあるのに、忘れられたような場所や時間ともいえる。 それはさらに言い換えれば、たくさんの干渉の中にあるぽっかりと不干渉な場所や時間ともいえる。 しかしながらその不干渉を生み出すものはつま

          踊り場的な。