意識をここに。
意識をここにもってくるということを、ここ何年もずっと意識してきたように思う。
それが自分のものになったかと思えば、またすぐに忘れてしまって、一進一退つかんではするり。
「湧いてくる」ということが必ずしもいいことなのかどうかはわからない。
湧いてきたイメージを具現化する作業に意味を見出していた昔と今は少し変わってきていて、瞬間的に形のないものを形のないままにさばいていくような場面が増えてきた。その姿勢の変化をどう受け止めるべきか、自問自答しながら恐る恐る進む。
「言いたいこと」ということに関しても同じだ。
明確な「言いたいこと」というものをわかりやすい形に具現化して、文字にして凝固する。その瞬間にその言いたいことは一つの着地点に到着して、そこがひとつの自分のゴールになる。
そのたくさんのゴールが自分の中に増えてくるわけだけど、結局のところ一つ一つのゴールすべてが、まったく違うものに見えて、まったく同じで。
結局のところ、それはあれやこれや文字や言葉にしてこねくりまわさなくてもいいような類のものであるのだと思うようになったこの姿勢の変化をどう受け止めるべきか、自問自答しながら恐る恐る進む。
恐る恐る進みながらもその中にあるいくつかの手ごたえのうち、これから先に自分の中で大きくなってくるであろう感触は、頭でなく感触をいかに優位におくべきかということで、感触を優位に置くということは、頭の先から足の先までのこの自分自身を丸ごと感じて生きるということに他ならない。
例えば冬の終わりを告げるのも、春の訪れを宣言するのも、梅雨明けを決めるのも、どこかのだれかの情報でなく、自分自身に教えてほしい、そしてそのひとつひとつが自分自身のが拠もなく発するものではなく、様々な感触の中で体得する経験と習慣のなかから発せられるものであるように、この1日1日を過ごしていかねばならないということだ。
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