バラ色の日々。

ここにでてくる映像も写真も、自分の思い出でもなんでもないのだけど、でもそれがさも自分の思い出であるかのような錯覚を覚えると同時に、

いまここが西暦何年で、今自分がなにをしていたのか、現実と思い出の境目が一瞬でぼやけて、溶けていくような気がした。

京都のはずれ。小さなワンルームの重いドアがあいて、カラフルなマフラーを巻いたあの人が今にもはいってくるような。

隣の公園から響いてくる音に耳を澄ましながら、小汚いマットレスの上でひたすらに時間を浪費するかのような、怠惰でいて、そして感覚的な毎日の中にいるかのような。

穏やかに見えて、その対極にあるような日々。

満たされているはずなのに飢えていて、
肯定されているはずなのに渇望しいて、
自由なのに不自由な日々。

30も折り返し、そんな日々を思い出す。

繊細な毎日だった。すべてが毎日、毎時間、毎秒に
限られたタイムリミットに向けて消耗されていていたのだということを、
その瞬間に気づけないからこそ、その時間はとても淡く切なく、
輝きを放つのだ。

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