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団子坂巡り(鷗外記念館を目指して)

根津の駅から千駄木へ続く坂道(不忍通り)をぼちぼちと上がり始めたが、車が多くせわしい割に歩道が狭い大通りよりも、脇道からのぞく住宅地に引き寄せられるようにして、フラフラと道を逸れていくのは常である。店や、その他特段見るものがなくとも、知らない土地の、人々が生活している界隈というのは、心惹かれるものがある。その先に何か素敵なモノが待ち構えているような気がして心が踊り、いそいそと足を踏み入れるのである。

根津には前の晩についたばかりで、地図上の位置関係は把握していても、現実の方向と感覚とがまだうまく噛み合っていない。駅からホテルに向かい、荷物を置いたあと、夕飯を食べようと、大通りやその少し裏手の店の多い辺りを少し散策し、元来た道を戻ったつもりが、いつの間に最初着いた時の、地下鉄の昇降口のところへ来ていて、訳がわからなくなった。簡単な道を行っているつもりでも、慣れない場所では東西南北が入れ替わってしまう。そんな訳であてずっぽうをいく気紛れにGoogle mapは欠かせない。

大通りから一本入った先は、落ち着いた雰囲気の住宅地だった。その日は今年最初の暖かい日で、辺りはまだ建物の影になっていたが、風もなく、過ごしやすい外気だった。思い切ってコートを羽織らずに出たが正解で、人気のない、午前中の静かな中を、よく手入れされた生垣、そう大きくはないが意匠をこらした住宅、低層のマンションなどを眺めて歩いた。
京都の家屋をうなぎの寝床と呼ぶが、それと似たような造りの、比較的新しい家が何軒が連なり、それが一つの区画をなしている。よく知らないが、都心で一軒家を持つにはそれなりの財産がいるのだろう。落ち着いてアクセスのよい場所は、きっと多くの人が求めているだろうから。

目的地への方向と大きくずれないことを意識しつつ、やや上りになった道を進んでいくと、辺りが開け、根津神社に出会した。今しがた歩いてきた道の左手は、幅の広い、急な登り坂になっており、坂のふもとに鳥居が現れる格好になっている。坂の先は丘の上の住宅地のようで、このまま鳥居をくぐらずに、登っていきたい。それくらいそそる何かがこの道にはあり、普段ならその誘い(いざない)にほいほいついていくが、今日は時間が限られている。神社を横切り反対へでることにした。後ほど鷗外記念館のビデオ上映で知ったが、そこは鷗外の「青年」にも登場する有名な坂道だった。

鳥居をくぐると、左手(坂のある方)は急な崖になっており、まん丸に刈られたツツジが、これでもかというほど密集している。崖の頂はビル何階分かの高さに相当し、神社と境を接する敷地には、黒い、箱型のモダンな住宅と、レトロな洋館のような趣の建物が並んでいる。あそこまでのぼっていきたいなあ、と見上げつつ、初めて来る場所だが、神社そのものは見慣れているので、楼門をくぐらず、敷地内の西側の脇道を進んでいく。神社といえば京都、という思い込みがあったが、東京の神社も立派だなあ、と透かしの入った塀越しに本殿を眺める。後から知ったが、綱吉の時代に造営された拝殿だったようで、そういえば西ではあまり徳川家とゆかりのある史跡をみたことがなく、さすが東京だなあ、とふ抜けのような感想が浮かんでくるのだった。

神社の反対側にでると、車道を隔てて医大病院があり、その脇に地図で確認しなければ見落としてしまいそうな細い通りがあり、そこを登った先が目的地(鷗外記念館)らしい。

小道の両側は高低差が激しく、左手の家々は玄関へいくのに通りに面した急な階段を登るようになっている。その中の一軒に、家の敷地に倒れ込むようにして接する崖があり、『触るな、崩れる恐れあり』という小さな札が掛けられている。反対側は小学校のフェンスが続いているが、生徒たちが走り回る人工芝をしきつめた運動場や校舎は、はるか眼下に見下ろす格好になっている。フェンスには『ものを投げ入れないで下さい』の看板がかけられている。なるほど、手癖の悪い人が何となく柵の向こうの崖下へ物を投げ入れたくのもわかる。しかしここもビル何階か分の高低差があるのだから、たとえ空き缶一個でも落ちてくるのは危険だろう。

鷗外記念館についたとき、私が通ってきた坂は「藪下通り」だと教えてもらったが、地図をでたらめにしか読まない私は、「これが団子坂か」と見当違いな感動にとらわれて登っていた。というのも、茉莉をはじめ、その妹や弟である杏奴と類の回想で読んだ団子坂と、自分の歩いている場所のイメージがぴったり重なったからだ。道幅も思い描いていたのとちょうど同じくらいだし、幼い杏奴が遊んでいる時に、落ちたという崖はどの辺りかしら、とキョロキョロと見渡していた。何を見ても、森家の記憶と結びつき、しまいには「ああパッパ(鷗外)はこの坂をのぼったりくだったりして、(総長をしていた)上野の博物館へ通ったのだなあ」といよいよ感動が高まってくるのであった。

(思い込みの)団子坂をのぼっていく興奮と、次第に急になる傾斜とで息が上がりはじめた頃、ふいにグレーの石造りのフラットな建物が現れた。森鷗外記念館である。



***
このように、私は目的地に辿りつき展示を見る前から大変興奮していた。ここへやってくる何日も前から、観潮楼(鷗外と家族が住んでいた家で、今、記念館がたっているところ)への坂をのぼっていくことを思って胸を高鳴らせていた。

東京に住んだことない私は、茉莉の著書を読み始めて以来「千駄木という地名は今でもあるのかしら?千駄ヶ谷というのはよく聞くけれども…」とぼんやり考えていた。そんなことは調べればすぐに分かるのだが、茉莉や茉莉が書くものに、最初からそこまでの思い入れがあった訳でもなく、疑問はそのまま放っておかれた。その後、茉莉以外の家族の著作からも鷗外の人となりを知るようになり、鷗外が家族に注いだ愛情や、鷗外と家族が住み、その死後も残された妻子が住み続けた観潮楼が自分の中で生き生きと再現され、自分とは何の縁もない、それも古い、過去の家族をますます身近に感じるようになっていた。そんな折、偶然宿泊することになった根津が、千駄木のすぐ隣の駅だということを知ったのは、ここへくるつい数日前のことだった。


根津から千駄木に向かいながら、だんだんそれらしくなっていく風景に、茉莉が、父・鷗外の留学先であったドイツを初めて訪れた時の、かつての心持ちに自身の心情をだぶらせた。

滞在先のヨーロッパで最愛の父の死を知り、嘆き悲しんでいた茉莉を元気づけようと当時の夫がドイツへ行こうと誘う。傷心のなか初めて訪れたベルリンはむしろ、茉莉にとっては懐かしい場所だった。鷗外がドイツから種を持ち帰り、生家の花畑と呼ばれた庭に咲き乱れていた花々が、街中や家々のいたるところに見られ、ドイツ人からも「君はゲルマン系だ」言われていた父と同じような横顔をした人達が闊歩している。書店には、幼いころ書斎で目にしたのと同じような背表紙が並んでいる。鷗外が茉莉に残していった、様々な痕跡が一気に花開き、父親の青春を追体験しているかのように、目の前に現れる。

その時のことを記した茉莉の高揚を追体験するかのように、今度は私が千駄木を歩いている。

フランスにいた頃、住んでいた街にはゾラの生家跡があり、何の感動もなく、その前をよく素通りしていた。ゾラの生家があるいうことは、同級生のセザンヌもそこで育ったわけで、今は公園になっている、セザンヌがサント・ヴィクトワール山を描いていた場所を毎日近道にして学校へ通っていた。今だったら多少興味を持って、その場所を訪れたり作品に触れたりしたと思うが、どんな立派な史跡や記念碑も、興味がなければただの場所なのである。


鷗外は漱石と並ぶ明治の文豪で、その著作は大変立派だと学校で習うが、頭の固い教師によって定型で語られる、文学史の中の鷗外や作品には何ら興味を持てなかった。興味を持ったのは、お嬢さんで育ったはずなのに晩年はアパートで独居老人となり、それを大して悲観することなく50を過ぎて著述を活発化させていった茉莉の描く、生き生きとした父親像からだった。

博学で権勢を極め、多くの人に尊敬された鷗外だが、家族に見せる姿はまた違っていた。家父長制の色濃い明治・大正に、社会的権威を持った人とは思えないほど、真の愛情をもった人だった。単なる溺愛でなく、慈しみをもって子供達の日常のこまごまとした面倒を見、また20歳ほど年下で、剛直な性格のため周囲といさかいを起こしがちだった妻・志けにも包容を持って接した。志けとの間に生まれた茉莉、杏奴、類の三人はいずれも、父を慕い、散歩や通学、夜中に便所についてきたもらった思い出などと共に、父から受けとった愛について書き残している。そうかと思えば、潔癖が行きすぎたために湯船に入らず(いつも洗面器に湯をひたしてきれいに拭き上げていた)、温泉に行けば家族一人ずつに桶を持参させ、洋装がどこか風変わりにうつるのか、田舎からでてきたじじいに対するような態度で自分に接する俥夫や売り子に、普段の理性的な姿からは想像もできないほどの癇癪を爆発させる…そんな意外な一面をユーモラスに描きあげるのは、彼と過ごした時間が最も長い長女・茉莉だ。

鷗外の死後、世間から孤立してしまった妻と子供たちは、鷗外から受けた深い愛を灯火のようにして、寄り添いあって生きていく…三人それぞれの筆致で語られる、その狭いゆえ深い愛の上に成り立った、数奇な家族の物語は私をひきつけた。令和になっても、愛といえば恋愛ばかりを思い浮かべるような日本において、各人が家族への愛を明確に意識して生きる様はほとんど奇跡のように思えた。

どの子供達も一番愛されたのは自分、といわんばかりに父との思い出を描いている。同時にみなしっかりとした作家の目を持っていて、愛する父や母、兄弟のことを冷静に分析している。
茉莉は、それとこれとは別といわんばかりに、翻訳と評論は一流だが、鷗外の小説はつまらない、と言い切っている。(こんなにはっきり断言できるのは茉莉の特権で、私はその茉莉の語を引用して人としゃべっていただけなのに、驚いてこちらを振り返った人がいた)。
それで、全集の中から没理想論争、サロメや僧房夢を読んでみる。鷗外の書いたものは時代もあって読み辛いものも少なくないが、その間にも子供たちの著作でパッパ(鷗外は家族からこう呼ばれていた)に関する知識だけは増え、いよいよ親しみが増していく。そのうちこうして記念館までのこのこやってきて、周辺を歩いてみる。


そんな風に鷗外を読んでいる人が、多いのか少ないのか、私にはよく分からない。だがそこまで文学に熱心でない私に、もっと知りたいと色々な書物を手に取らせているのは、妻や子供たち、果ては出入りの看護婦にまでパッパと親しまれた鷗外が愛情を注いだ、彼の家族と彼らが残した記録たちなのだ。

*この文中では団子坂と思い込んだ藪下通りが登場しただけで、ついに一度も団子坂が登場しないままですが、、鷗外とその家族のゆかりの地を訪れたこととその感動を記念して、彼らの界隈という広い意味から「団子坂巡り」としました。

**また、鷗外の家族による著書は現在では手に入り辛く、図書館で借りたものも多いため、全てを手元において本エッセイを執筆することは叶いませんでした。そのため、記憶違い、思い違いの箇所があるかもしれませんが、ご容赦願います。


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