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とあるADHDのこどもの記録

小学2年生になった。
1年生の時は、団体行動についていけない子供たちの中で、ある意味紛れていたけれど、
2年生になっていよいよ目立ち始めた。

担任も生徒も総入れ替えとなり、
真面目なタイプの中年女性が担任となった。
先生にも色んなタイプがいる。

必ずしも、子供の特性を理解してくれようとする大人ばかりではないのも仕方がないことだろう。

世の中ではインクルーシブ教育が叫ばれ、過去からの詰め込み教育から探求学習を!ICT教育を!と先生たちも追いつくのに必死だ。

そして、教師採用の倍率は年々下がっていて、教える側の質の低下もまた、これからの大きな課題となるだろう。

限りある公教育の環境では、「限りある多様性」しか叶わないのも仕方のないことなのかもしれない。
半ば諦めの気持ちを持ちつつも、
自分の子どもにとって、不利益な環境なのだとしたら…?
親自身も学びながら、相手(学校)を鼓舞して、環境改善を進める草の根活動をするしかないよなぁ、と思う。
それか思い切って環境自体を変えてしまうか。それは誰しもができることではないけれど。

正直なところ、
「みんなと同じように、大人の指示に正しく従って、みんなと同じペースで、作業ができる子ども」になって欲しいかというと
これからの人生を生き抜いていくのに、
あまり意味のないことのようにも思える。

ただ、沢山の人(社会)と関わり合う中でしか知ることのできない喜びや悔しさ痛み、達成感を学んで欲しい。
つまり、守られた環境で、手取り足取りサポートされるのではなく、ということだ。

ADHDは、知的には健常児と変わりがないとされる。これまでは、そんなことすらも知らなかった。

「発達障害」という言葉の「障害」という言葉に踊らされ、
まさかうちの子どもが「障害者」であるはずがないと。
でも、この気持ちは今も変わっていない。
私は「特性」だと捉えている。
名称が生み出す印象の問題は、色んなところで起こっていると、思う。

たしかに、うちの子は多くの人とは違う特性を持っている。

・自分がやりたいこと以外のこと(つまらないこと)は、
「なぜそれをしなければならないか」を理解しないと一切やらない。ただし、理解すればやれるし、決めたルールを守ることができる。

・自分と信頼関係がない大人の言うことは、基本的にきけないようである(彼に言わせると、好きではない人)

・自分のことを人格含めて認めてくれる大人の話は聞くことができる
(初めて会った大人でも、コミュニケーションの仕方によっては、信頼関係を作ることができる)

・達成感が、次の行動につながる。

・嫌な時間は、意識でシャットダウンできる。(興味関心がないと場所問わず半ば意識を失ったかのように眠る)入学式の時も昏睡状態であった…

・好きなことをしている時や、好きな友達といるときは、色んなアイデアが飛び出す。巻き込み力が強い。

親の欲目もあるだろうが、彼の行動は一般的には突飛に映るものの、私から見ると、ある意味とてもまともな感覚を持っているようにも思う。
そして、大人の言うことを聞け!みたいなものが通用しない。
つまり、ちょっとめんどくさいけど、よく考えたら、それって、子どもじゃなくて、ひとりの人間だと思ったら、当たり前のことじゃない?

指示待ちは苦手、自分でやりたいことを見つけてどんどん先に行ってしまう。
勝手に失敗して、学んでいく。そこで得た達成感は半端ない。
(もっともこれは危険も多いので、大人に声をかける練習をするようにしている)

長い時間を過ごす学校生活の中で、
「言うことを聞けない子」だというレッテルを張られて、萎縮してしまうことが、どれだけ可能性を奪うことか。
今は、それだけを恐れている。

2年生になってまもなく、
「マヒってどう言う意味?」と聞いてきた。

「足が痺れたりするでしょ?つまり、普通の状態とは違う状態になっていることだよ」と説明すると、
「僕の頭は、マヒしているのかな?」
と、笑って私に問いかける、

質問の意味がわかり、慌てた私はうまく答えられていただろうか。
「違うよ、麻痺ではないよ。あなたのは個性と言うんだよ」

そう答えると、聞いたか聞かないかまた別の関心へ移ってしまった。

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